帰国後、この話を聞いた井深も憤慨した。だがすぐ持ち前の冷静さを取り戻し、あれこれ対策を考えはじめた。その結果、〈モルモット〉という大宅の皮肉を〈先駆者〉におきかえてしまうことを思いついた。そして社内には「モルモット、結構じゃないか」と開き直ってみせた。また社外には「小社は業界のモルモットたらんとしております。すなわち、先駆者、開拓者をもって任じております」と、積極的にPRしはじめた。
言外には「われわれはただのモルモットではない。常に大企業の一歩先をゆく開拓者である。いたずらに金と頭脳と労力を使った成果をむざむざ大企業に奪われるようなことはしない」という意味がこめられていたことはいうまでもなかった。
〈モルモット精神〉の意味が社内に定着したのを見届けた井深は、それを「開拓者精神」におきかえ、社の内外に積極的にアピールしはじめた。そのあたりの発想はいかにも井深らしいやり方であった。
事実、その頃(三十三年)のソニーは「フロンティア精神」を呼称するにふさわしい活躍をしていた。たとえばソニーの経営を支える二本目の柱となったトランジスタラジオは、それまで一二機種発売していたが、三十三年には新たに六機種が追加された。このなかには世界初の時計つきホームラジオ〈TR‐151〉(輸出用)などが含まれていた。後発各社のトランジスタを上回る高品質のトランジスタがつくれるようになった証である。
しかし、ここまでもってくるには、関係者はいうにいわれない苦労をしている。なかでもいちばん手をやいたのはグローン型トランジスタの歩留り改善であった。この問題も半導体製造一課の塚本哲男、天谷昭夫らのねばりでなんとか解決することができた。しかも、その過程で、ノーベル賞受賞者江崎玲於奈の〈トンネル効果〉の発見という思いがけない副産物も生まれた。この研究成果は三十二年秋の物理学会で報告されたが、結果はさんざんだった。理論づけが甘いと若手の研究者や学者から集中攻撃を受け、しばしば演壇で立ち往生させられた。江崎はそれがくやしくてならなかった。そこで翌年の一月、研究論文をアメリカの物理学会誌に投稿した。これが江崎を有名にするきっかけになろうとは江崎自身も知る由もなかった。
三十三年六月、江崎はベルギーのブリュッセルで開かれる国際固体物理学会に出席するためヨーロッパに飛んだ。自分たちの研究成果を学会で発表し、世に問うてみようと思ったのだ。ところが、会議の冒頭、思いがけないことが起こった。司会役に指名されたベル研のショックレー博士(トランジスタの発明者の一人)が、江崎論文を激賞したことである。
江崎に対する評価が一変した。同時にこの偉大な研究者を生んだ戦後派企業「ソニー」の存在を注目する人が次第に増えてきた。そのソニーが国産初の四ヘッドVTRをつくりあげたのはこの年の秋であった。
開発を担当したのは、ソニーを代表する技術者に成長していた木原信敏である。木原はテレビの本放送がはじまった昭和二十八年に最初の試作機をつくっている。これはアメリカのRCA社が、世界ではじめて固定ヘッドVTRの試作に成功したのとほぼ同じ頃であった。その辺のいきさつを木原は次のようにいう。
「私はむかしから、ものを考えるときは、誰にも手の内をあかさないようにしている。下手に口外すると、雑音が入ってやりにくくなりますからね。それに私は、必ずものになるというものしか手をつけない。最初のVTRのときも自信があったからいわなかったんですよ。そんなわけで、一人でコツコツやって試作機をつくった。それも白黒の固定ヘッド方式で、テープは四分の一インチの普通のオーディオ用のテープを使った。もちろん、ちゃんと絵を出しました。エリザベス・テーラーの顔をね」
木原のVTRの試作を知った井深は、実用化研究のための助成金を通産省に申請しろと木原に指示した。ところが、通産省はこの申請を却下した。時期尚早というのが表向きの理由だった。
当時の通産省は産業の根幹になる重化学工業の育成に総力をあげて取り組んでいる最中。そんなときに、知名度の低い電機メーカーが、海のものとも山のものともわからないVTRの実用化研究の補助金を要求しても相手にされるはずがなかった。
「絶対にものにできる」と確信をもっていた木原も、これには失望した。だが、相手が泣く子も黙る通産省の役人とあっては、文句をいってもはじまらない。もっとも、その頃のソニーにも弱味があった。テープレコーダの特許紛争と、WE社と交わしたトランジスタ製造のための仮契約問題などで、通産省担当官の心証を害している。そのため、結局、VTRの実用化助成金申請は断念せざるを得なかった。
苦い体験を味わった木原がふたたびVTRの研究をはじめたのは、アメリカのアンペックス社が回転ヘッドFF方式の放送用VTRの試作に成功したというニュースを聞いた昭和三十年頃であった。しかし最初の二年間はトランジスタラジオやテレビの開発に追われ、本格的な実用化研究まで手がまわらなかった。
やがて三十三年になると、アンペックスの放送局用VTRが輸入されはじめた。輸入価格は二五〇〇万円という高額にもかかわらず、テレビ局の開局ブームで二三台もの輸入申請が出るほどの過熱ぶりをみせた。これを問題視した通産省は、VTRの国産化をはかるため、電機メーカー各社に補助金を出し、試作研究を積極的に奨励することにした。
この呼びかけにすばやく対応したのがソニーとNHK技術研究所であった。ソニーは補助金を申請した三十三年六月から、アンぺックスタイプの試作機の開発に着手した。そして、わずか四ヵ月後の一〇月初旬にはものをつくりあげてしまった。これが国産VTRの第一号であったことはいうまでもない。