ヨーロッパから帰国した井深は〈モルモット〉問題が解決すると、開発陣に次のテーマを指示していた。テレビ用のシリコントランジスタの開発であった。井深がトランジスタを使ってテレビをつくろうと思いたったのは東通工時代の昭和三十二年夏の頃だった。
「私自身はテレビの技術をよく知らなかった。それだけにVHF用のチューナーの石さえつくればテレビはすぐできるものと単純に考えていた。そして、その頃いちばん新しいといわれていたメサ型でチューナーをつくりテストしてみたんです。だができなかった。ほかに映像出力用のパワートランジスタや偏向用のトランジスタがいる。それもゲルマじゃなくて熱に強いシリコンでつくらないと実現できないことをはじめて知った。つまり、うちは必要に迫られてシリコントランジスタの開発に手をつけたんです」(井深)
シリコンはゲルマニウムより熱に強いし、信頼性も高いということは関係者もある程度知っていた。しかし、製法がむずかしく、高純度の結晶がなかなか得られないといわれていた。
その頃、アメリカのデュポン、GEなどの一流メーカーが軍事用や宇宙開発用に純度ナイン・ナインのシリコンの単結晶をつくっていたが、生産量はわずかでしかなかった。したがって値段が高い。三十三年秋、〈エサキ・ダイオード〉の発表で渡米した江崎が、結晶グループの塚本に頼まれて購入したシリコンの単結晶は、一グラム三四〇〇円もしたほどである。
こんなに高価なシリコンを使ってトランジスタをつくれば、一本あたりの価格は、おそらく数万円になっていたであろう。それをコンシューマ用に使うなど、常識ではとうてい考えられないことであった。にもかかわらず、井深は、あえて挑戦を命じた。
なぜ、そんな冒険をする気になったのか。基本的にはシリコンが経済性の高い物質だと知っていたからだ。シリコン(珪素)は、ゲルマニウムと違い地球上の土砂中に無尽蔵に存在する。結晶づくりの工業化に成功し、量産が可能になれば、単価も下がり、ゲルマニウムにとって代わる時代が必ずくる。そのとき、供給をアメリカに仰いでいたのでは日本の発展はあり得ない。なんとしてでも国産技術で高純度のシリコン単結晶をつくり出さねばと、前から考えていたのである。
そこで、外部の素材メーカーと手を組むことにした。井深がその相手に選んだのは、旧日本窒素肥料の流れをくむチッソ電子の前田一博(のち社長)の訪問を受けたのがきっかけだった。
その前田は次のようにいう。
「私どもは、昭和三十年頃から金属塩化物の研究をやっていた。金属を塩素で処理する仕事ですね。井深さんのところを訪ねた当時は塩化ビニールもできていない頃で、取り扱っていた塩素の使い道があまりなかった。そこでトランジスタで脚光を浴びているゲルマニウムに手を出してみようかという気になった。ゲルマニウムの結晶づくりには塩素は欠かせませんからね。たまたま、当社に東通工の相談役をやっておられた田島さんの親戚の方がいたので、その縁を頼って井深さんにゲルマをやらせてほしいとお願いしたわけです。すると『これからはシリコンの時代だ。シリコンをおやりなさい』と、逆にアドバイスしてくださった。三十年の秋頃じゃなかったかと記憶しています」
井深は、シリコンを大量につくるには、高度な化学知識がものをいう。それを自力でこなすには荷が重すぎる。どこか優れた日本のメーカーと手を組んだほうが得策だと考えていた。そんなときチッソ電子の前田の訪問を受けた。そこで渡りに船と、シリコンづくりを勧奨する気になったのである。
井深の社内洗脳がはじまった。これからはシリコンの時代になることを関係者に周知徹底させようとした。根回しがある程度すすんだ段階で、岩間にチッソ電子との共同研究を指示した。結晶の開発をまかされたのはグローン型トランジスタの改良を終えたばかりの塚本である。それも、シリコンの単結晶をつくるだけでなく、それを使ってテレビ用のトランジスタをつくれというのが首脳陣の要求であった。
ソニーとチッソ電子の未知への戦いがはじまる。三十三年一月のことである。最初の目標はチッソ電子と協力し、素材になるシリコンの多結晶づくりだった。岩間は「結晶づくりに必要なノウハウはチッソ電子にすべて与えてよい」と、塚本に指示している。素材の安定供給源を確保するためであった。
塚本をリーダーとする結晶グループは、まず、アメリカから輸入した多結晶シリコンを使い、高純度の単結晶引上げ技術の開発に努めた。そして、チッソ電子の供給体制が整う前には独自の方式で評価装置、測定装置をつくりあげ、そのデータをチッソ電子にフィードバックするなど、緊密な情報交換を行なっている。
チッソ電子からの単結晶の供給が可能になった三十三年六月、塚本たちは、大出力のシリコントランジスタの試作に着手した。そして、九月には結晶、回路、ブラウン管、設計の担当者が一堂に会し、はじめての合同会議を開いた。この席でトランジスタテレビの大まかな仕様が決まり、ただちに試作研究に入った。いちばん苦労を強いられたのは塚本たち結晶グループである。水平偏向用、映像出力用シリコントランジスタ、チューナー用メサ型ゲルマニウムトランジスタなど一〇種類を超える新しいトランジスタを開発することになったからである。
「本格的な試作にはいったのは三十四年一月でした。ゲルマのメサ型は製造技術的に多少問題があったが、アメリカでもつくられていたし、それほどむずかしいとは思わなかった。しかし、シリコンは、民生用に開発されたものが皆無だったため、さんざん手をやきました」(塚本哲男)
結晶自体にバラつきがあるため、条件を満たしてくれるトランジスタがなかなかできないのだ。たしかに、熱にも強く、耐圧も高かったが、コレクタ部分の抵抗値が大きすぎ飽和電圧が高くなる。そのためパワーが食われ、電圧がドロップするという現象が起こる。これをなくすには、コレクタ部分の抵抗を低くして、逆にベース部分の抵抗を高くしなければならない。この技術が障害になって、なかなか先へすすめないのである。