話が前後するが、ソニーが八インチのトランジスタテレビ〈TV8‐301〉型を発売した昭和三十五年は、経営面でもエポック・メーキングなできごとが重なった年でもあった。二月にはニューヨークにアメリカ現地法人「ソニーコーポレーション・オブ・アメリカ」を設立、アメリカにおける独自の販売体制をスタートさせている。また一一月には、神奈川県厚木市の相模川沿いに五万坪の土地を求め、近代的な半導体工場を建設している。同じ一一月の下旬には、神奈川県保土ヶ谷の横浜新道沿いの高台に八五〇〇坪の土地を求め、中央研究所の建設に着手するなど、拡大基調を歩みはじめた。こうして経営状態は順風満帆だったが、人材の確保という点でちょっとした手抜かりがあった。トンネルダイオードの発明者江崎玲於奈をIBMに引き抜かれたことである。表向きは井深が江崎の才能を惜しみ、自らIBMにはたらきかけ、江崎をIBMに送り込んだことになっているが、実際はもう少し込み入った事情があったようだ。その辺のいきさつをあるOBは次のように語る。
「江崎さんはトンネルダイオードをつくってから、コンピュータの素子をやりたいという気持ちを強くもつようになった。そして井深さんに何回かアプローチしたが、相手にしてもらえなかった。ソニーのポリシーと合わないからだというわけ。当時、井深さんは、生活に役立つ独創的な商品を開発することしか考えていなかったんですね。コンピュータに手を出す気はなかったし、またその余裕もなかった。江崎さんはそれが不満だった。そんなときIBMから誘われ、ソニーをやめる気になったんです」
もちろん、井深をはじめソニーの幹部は江崎の慰留に努めた。だが、江崎の決意は予想以上に固く、説得を断念せざるを得なくなった。そこで井深は、逆にIBMの首脳に話し、江崎を気持ちよく送り出す雰囲気をつくったというのが真相らしい。
こうして井深は、惜しい人材を手放したが、後悔するようなことはしなかった。もっと大物をスカウトし、研究所長に迎える構想をもっていたからである。その人は近々東北大学を定年退職する渡辺寧教授であった。橋渡しをまかされたのは、ソニーの雰囲気にすっかり溶け込んで活躍していた高崎であった。その高崎はこんな打ち明け話をする。
「ちょうど、ぼくが仙台に戻った頃だったかな。井深さんが前触れもなく仙台に来られた。そして、引く手あまたかもしれないが、渡辺先生をうちにぜひ迎えたいので一緒に会ってほしいときりだされた。井深さんは先生に惚れ込んでいたんですね。そこでぼくは、その気持ちはわからないでもないが、いまからじゃムリなような気がすると忌憚のない意見をいった。すると井深さんは、断わられてもいいから、一度渡辺先生の気持ちを打診してみたいといわれる。それじゃというので、仙台のさる料亭に席を設け、先生をお招きしたんです」
その席で、井深は「うちはご承知のように小さな会社で、たくさんの報酬は差し上げられないが、先生の希望に沿った研究所をつくりたいと思っているので、ぜひご一考願えないか」と、懇請したそうだ。
だが、渡辺は、高崎が予測した通り、井深の要請を丁重に断わった。渡辺はその理由を次のように述べた。
「私ごときのものにみなさんが暖かい手を差しのべてくださる。こんな嬉しいことはない。だが、いまの私は、退官後どこへいくとも決めていない。しかし、かりにどこかにお世話になるとしたら三菱電機しかないような気がする。もともと私は、三菱の奨学金で大学を卒業することができた。だから三菱に入るのがいちばん妥当だし、みなさんも納得していただけるのではないかと思っている」
この返事を聞いた井深は、二度と渡辺招聘を口にしなかった。頼んでもムダとハッキリわかったからだ。それから一ヵ月ほどたつと渡辺の静岡大学学長就任が発表された。当の本人が知らない間に、選挙で推薦が決定したものだ。
いずれにしても、井深の画いた人事構想は淡雪のように消えた。これまで「ほしい人材はなんとしても迎え入れてみせる」と自信をもっていた井深が、人の問題でこんな手違いを生じたのは、あとにも先にもこれがはじめてであった。後味の悪い思いをしたに違いない。
一方、ソニーを離れる決意を固めていた江崎は、研究所長にふさわしい人物として鳩山道夫を推薦していた。当時、鳩山は、工業技術院電気試験所の物理部長で、日本の半導体研究の草分けの一人として有名な存在だった。戦中は理化学研究所、海軍技術研究所の技師として活躍した実績をもっていたし、政界の重鎮である鳩山一郎の甥でもあった。そういう意味でも研究所長にはうってつけの人物といえた。
その鳩山が井深の意向を知ったのは、結婚を目前に控えた江崎から電話で教えられたのが最初である。そして江崎の結婚披露宴の席で、井深から直接「うちに来てくれないか」と、正式に要請された。江崎も協力を惜しまないというし、井深も好きな基礎研究をやってもよいと約束してくれた。以前から、むかしの理化学研究所のような自由な雰囲気の研究所をつくってみたいと考えていた鳩山は、その一言でソニーの世話になってもよいと思った。三十五年秋のことであった。
その後、両者の話合いも順調に運び、鳩山の入社は決まった。江崎がソニーを去り、IBMに移る話を鳩山が聞いたのはその直後であった。鳩山は、その後、ソニー入社の動機を聞かれると「江崎さんにダマされてね」ということにした。もちろんジョークである。