厚木工場の竣工、研究所の建設着工と、ソニーの環境は日増しによくなっていく。誰もがそう思った。だが、そんなソニーにもたった一つ泣きどころがあった。財務体質の改善という難問を抱えていたことである。
もちろん、創業当初のように、日銭に困ったり、月末の資金手当に窮することはなかったが、研究開発、設備増強など先行投資に必要な資金が不足がちになった。しかし、トランジスタの成功以来、井深の夢はますますふくらみ、未到分野の基礎研究課題は増える一方だった。
その典型的なケースが東北大永井研究室と手を組んではじめた「立体録音研究会」と、「高密度磁気記録研究会」への資金援助である。このうち立体録音研究会は、井深がアメリカ視察の旅を終えて帰国した一年後の昭和二十八年にスタートしている。「立体録音はなぜ音がきれいに聞こえるのか。その原因を知りたい」という井深の希望ではじまったものだ。
研究会メンバーは永井教授のほか、永井研の岩崎俊一(のち東北大教授、電気通信研究所長)教授と数名の大学院生。これに栗谷潔、西巻正郎(東北大)、伊藤毅(早稲田大学)、田中茂良(NHK技術部)といった音響関係の研究者、技術者などで構成されていた。もちろん、井深もひんぱんに仙台まで足を運び、若い研究者と話し合う機会をもった。そして自分の考え方、意見を遠慮なく発表した。それが若い研究者の好奇心をどれだけ刺激したかはかりしれない。
結局、この研究は結論が出るまでに五年の歳月を費やした。最終的な報告をまとめたのは永井研の大学院生であった吉田登美男(のち松下通信工業技師本部研究室長)である。最初の二年間は試行錯誤の連続、三年目からは音を生理学、心理学的な面からとらえるなど地道な学術研究活動が続けられた。この間、慶大文学部の印東太郎助教授(のち教授、カリフォルニア大学アーバン校終身教授)、電電公社の音響室長だった早坂寿雄(のち通研所長、沖電気客員)、音声研究家、三浦種敏(のち東京電機大教授)など、外部の学者、専門家の指導や助言をあおぎ、音の比較分析というまったく新しい手法を考え出した。たとえば、美人コンテストで「ミス」を選ぶとき、目や鼻はどんな形か、バストとヒップの比率は、脚の形はどうかというように、まず美しさを構成する個々の要素に分け、それぞれをバラバラに採点する。審査員はその結果をもちよって全体像として再現、バランスを比較検討し、最終的に優劣を決めていく。
音の場合も、それと同じで、最初に音楽の美しさを構成する快さとか豊かさ、あるいは、いきいきしている、臨場感があるといった個々の要素についてそれぞれの尺度で測定する。これを立体録音の音についても行なう。そのうえで立体録音の音とそうでない音の差を人間の心にある心理尺度(感性)で比較検討するという方法である。そのとき吉田が使ったのが、慶応の印東助教授の指導で学んだ計量心理学の因子分析法だった。これは心理学や経済学の分野でしか使われていなかった特殊な数学である。
吉田は、一見つかみどころのない音声と聴覚の関係を明らかにするには計量心理学の一つの手法である因子分析法を使うのがいちばん手っ取り早いと考えたわけだ。
「従来の一チャンネル(モノラル)の録音は、周波数特性を忠実に再現することしかできない。そのため音がカンヅメのように単調になってしまう。一方、立体録音はもとの音場にある空間情報(方向感覚と、背景で妨害される音を抑圧する効果)を再現できるので、自然に近い音をとらえることができる」というものであった。
のちに吉田はこの研究成果を論文にまとめ、学位を取得している。身近に永井、印東、早坂、三浦といったよき師、よき助言者がいたことにもよるが、その間、物心両面にわたり積極的な援助を惜しまなかった井深の影響は大きかった。おそらく、当時、こんな研究を自由にやらせてくれた企業なり経営者は皆無だったはずである。技術者、経営者としての井深のスケールの大きさを表わすエピソードである。
「立体録音研究会」と同じような発想でスタートしたのが「高密度磁気記録研究会」であった。これは、テープレコーダに使用する録音テープの品質向上を目的とした勉強会である。その頃ソニー(当時東通工)をはじめ、TDK、日東電気工業、東北金属工業の四社が磁気テープを提供していたが、アメリカ3M製のスコッチテープと比べ品質面で格段の開きがあった。そこで井深は、テープ部長の高崎(仙台工場長兼務)とはかり、東北大と共同で勉強会をスタートさせた。三十二年春のことである。
この呼びかけに応じたのは、永井研の岩崎俊一助教授、金属材料研究所の白川雄紀教授、非水溶液化学研究所の岩崎広次教授、下飯坂潤三助教授(当時、のち法政大工学部教授)、物性研究所の津屋昇助教授(当時)などで、これにソニーから井深、植村三良研究部次長、盛田正明(前出)がオブザーバーとして随時顔を出すことにした。
勉強会で中心的な役割を果たしたのは、岩崎俊一助教授であった。岩崎は東北大工学部電気通信科の出身で、永井の後継者と目される逸材である。昭和二十四年、大学卒業後、永井の推挙で東通工に入ったが、二年後にふたたび永井教授のもとに戻った。そして、これまで誰も手がけていなかった磁気録音の原理解明に真正面から取り組んできた学究肌の人であった。
岩崎は、以前から最適な磁気材料は酸化鉄しかないという当時の常識に疑問をもっていた。これに共鳴したのが井深と高崎である。
こうして勉強会のメインテーマは、「合金粉末を使った磁気テープの開発」にしぼられることになった。岩崎の未知への挑戦は三年あまりも続いた。三十五年には世界初のデジタル合金テープの試作に成功する。このテープは日本の磁気テープの〈バイブル〉といわれたスコッチの111Aの特性をはるかに上回っていることも実証された。にもかかわらず、実用化は見送られる。つまり、前に触れた通り、通産省の指導によるテープの規格統一が図られ、NHKの要望によって標準テープ(111A)の性能を越えてはいけないということになったからだ。
これを機会に岩崎は勉強会から身を引いている。これ以上、ものづくりに執着すると学者としての研究姿勢を曲げることになると思ったのだ。研究開発はソニー研究陣と仙台工場が引き継ぎ、三十六年はじめには国産初のビデオ用メタルテープをつくりあげた。このテープは三十六年二月、ニューヨークで開かれたIREショーに参考出品し注目を浴びた。この間、ソニーが注ぎ込んだ援助資金、開発資金は数千万円におよんだといわれている。この一連の研究成果が、のちにVTR技術発展を促す大きな原動力になるのである。