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創造の人生46

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:財務体質の改善「井深さんの夢を、なんとしても実現したい」 これは盛田をはじめ、ソニーの社員の誰もが考えていることだ。事実
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 財務体質の改善
 
「井深さんの夢を、なんとしても実現したい」
 これは盛田をはじめ、ソニーの社員の誰もが考えていることだ。事実、ソニーはその通り新しい商品をつくり出し、着実に業績を伸ばしてきた。しかし、そのための先行投資は増えこそすれ、減ることはない。台所が苦しくなるのも当然だった。勢い、銀行の融資をあてにしたくなる。だが、金融事情が悪化し、メインバンクの三井銀行は安易に金を貸さなくなった。ソニーのご意見番的な存在だった万代順四郎が、三十四年に世を去ってから、そんな傾向が次第に目立ちはじめている。
「このままでは〈ジリ貧〉になってしまう」と、心配したのは、当時、三井銀行八重洲口支店長だった吉井陛(のちソニー常務)である。吉井は、井深、盛田に、ソニーの財務体質の弱点を指摘し、「今後は三井だけでなく、すべての銀行と取り引きし、株をもってもらうようにすべきだ」と助言していた。盛田もその必要性を以前から感じていた。だが、社内に財務担当の適任者がいなかった。そこで、「それをあなたがやってくれないか」と、強引に吉井を口説き落としてしまった。三十六年春浅い頃だった。日本にADR(アメリカ預託証券)ブームが起きたのは、その直後だった。これは外資に対する規制が緩和された三十五年初頭から関係者の間で話題になっていたことである。それに呼応するかのように、秋にはモルガン・ギャランティのモックレイを団長とするアメリカ金融界の日本証券市場視察団が大挙して来日、経済界は歓迎一色に包まれた。
 ソニーの財務体質改善に頭を悩ましていた吉井は、これを見逃すはずがない。さっそく盛田に相談をもちかけた。ソニーのファイナンスを高める絶好の機会だと思ったからだ。しかし、実行に移すには二人だけでは心もとない。そこで野村証券の寺沢芳男(のち多数国保証機関長官=MIGA長官、参院議員)の協力を求めることにした。体制を整えた盛田は、ただちに行動を起こした。
 手はじめに、盛田は、モックレイ調査団の一員であったスミス・バーニー社のA・シュワルツェンバッハと会う機会をもった。そしていつもの熱っぽい調子でソニーの実情と将来性を説いた。
 何回かの渡米で、アメリカ人の心をつかむテクニックを身につけている盛田の独特の話術に、シュワルツェンバッハはすっかり魅了されてしまったらしい。そしていつの間にか、ソニーがADRを発行するに足る会社だと確信するようになる。帰国すると、ADRの受託銀行であるモルガン・ギャランティにはたらきかけ、同行の日本におけるパートナーである東京銀行を通じて大蔵省にアプローチさせるなど、精力的な活動を開始した。
 とはいえ、ADR発行を希望する企業はたいへん多かった。大蔵省が事前に調査したところ、一〇〇社を超えていたというから、その過熱ぶりがわかる。名乗りをあげた各社の首脳も、自社株がADR銘柄としてアメリカ国内で取り引きされるようになれば、社名はいうにおよばず、会社内容、製品の格好なPRになる。それによって得るメリットが大きいからなんとしてもADRに割り込みたいと思ったのだろう。だが、許可権をもつ大蔵省としては、アメリカの投資家に迷惑をかけるような企業を選ぶわけにはいかない。それだけに資格審査は厳格に行なった。
 その結果が発表されたのは三十六年二月であった。ADR発行を認められた企業は、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄、三井物産、三菱商事、東芝、日立など一六社。その一六社のなかにソニーが入っていたのである。
 これには関係者も驚いた。なかには「なんでソニーが!」と、顔色を変えておこった大メーカーのトップもいたそうだ。当然かもしれない。当時のソニーといえば、その三年前の一二月、東証一部上場銘柄に昇格したばかり。資本金はわずか九億円、三十六年四月期の売上高七五億円そこそこの弱小メーカーにすぎない。アメリカの識者の間でもこの結果に首をかしげる人が多かったといわれている。
 しかし、専門家はそうは見なかった。そのバロメーターの一つが株価であった。ソニーがはじめて株式(額面五〇円)を店頭公開したのは昭和三十年。そのときの取引き価格は一二八〜二〇八円だった。それが東証第一部上場を果たした三十三年末には、三〇〇円前後で取引きされるようになった。年があけるとトランジスタラジオの輸出好調を反映し、四〇〇円台から七〇〇円とジリジリ値上がりをはじめ、八月には一気に一四三〇円の高値をつけ、市場人気をさらってしまう。この過熱ぶりを、当時の週刊誌は次のように報じている。
「昭和二十一年以来、増資株を引き受けてきたとすると、こんどの増資(三十四年一一月)で、じつに株数は二八八〇倍、株価を八〇〇円として計算すると、はじめの一株は二三〇万円にも成長したことになる」(『週刊新潮』三十四年九月一四日号)
 シュワルツェンバッハは、盛田の話術に魅了されただけでなく、株価の急成長ぶりに着目したのだ。しかも、ソニーは創業以来、独自の道を歩み、世の中にない商品の開発に挑戦していくことを信条としている。アメリカ人はこうしたパイオニア精神に富んだ企業なり、人に対し、常に尊敬の念を抱く。当時のアメリカ人は日本に対しても心に余裕をもっていたといえる。ADR発行の資格を得たソニーは、盛田を中心にプロジェクトチームを編成、その実現を可能にする手続き、諸作業に取りかかった。だが、仕事は想像を絶するほど困難をきわめた。日米両国間では会計原則や規制も違う。それを理解したうえで、一つひとつクリアしていかなければならない。ほかにも難問が山積していた。盛田はその問題処理に寝食を忘れて取り組んだ。ADRが発行され る六月までの半年間を想起して、後年、盛田自身「あんなに働いたことはなかった」と、述懐したほどである。
 その苦労が見事に報われる。日本のADR発行第一号となった二〇〇万株のソニー株(原株一〇株単位、公募価格一七・五ドル)は、発売開始二時間で完売した。これによってソニーの資本金は二一億円となり、ようやく一流企業にふさわしい経営展開ができるようになった。
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