盛田はなぜADR発行にそれほど執念を燃やしたのか。その理由として考えられるのは、(1)財務体質を改善する、(2)知名度が高まり、セールス活動の展開がラクになる、(3)国際企業として信用が高まる、(4)外資の調達が自由にできるなどだが、それにも増して大きかったのは、時価発行増資によって低コストで多額の資金が調達できることだった。それを教えてくれたのはシュワルツェンバッハである。現に盛田は次のようにいっている。
「彼からアメリカの証券市場のことをいろいろ教えてもらった。なかでも、いちばん印象に残ったのは〈株式はコーポレート・カレンシーだ〉という言葉でした。これは一つの会社が日本銀行と同じように株式という名のお札を発行し、そのお札の価格は企業の業績を背景に市場が決めてくれるというもの。会社に力があれば、その価格は高くなるから、より低いコストで多額の資金が調達できる。会社の競争力が資金コストに反映されるのです。この考え方に私は惹かれた」
これはソニーのような技術指向型の企業にとってたいへんな武器になる。会社が独自の技術をもっていれば、銀行に頭を下げずにすむし、資金のバックアップがあれば、先行投資も安心してできるからである。だが、この間、すべてが順調に動いていたわけではない。それどころか、前代未聞の醜態をさらけ出すような事件が起こった。ADR発行直前、完成したばかりの本社工場で行なわれる予定だった創立一五周年の記念行事がストライキのため、あやうく中止になりかけたことだ。
これはソニー労組が、式典の前日、突然七二時間スト決行を通告してきたため起こったものだ。それを知った井深も盛田も顔色を変えた。「なぜ、こんな大事なときに!」と思ったのだ。
ことの重大性を心配した一部の幹部は式典を順延してはと進言した。しかし、すでに三〇〇名近い招待客に案内状を送ってある。そのなかには秩父宮妃、池田首相をはじめとする政財界、学界の著名人が多数含まれている。いまさら中止するわけにはいかない。そこで首脳陣は式典会場を別の場所に変更し、予定通り開くことにした。
問題は会場をどこにするかであった。盛田の指示を受けた幹部は電話に飛びつき、有名ホテルに片っ端から電話をかけはじめた。高輪プリンスホテルの宴会場が確保できたのは、夜の八時すぎだった。それから夜を徹して、招待状の発送先に会場変更の連絡を取るなど、てんやわんやの大騒ぎを演じた。
いったいなぜそんな失態を演じなければならなかったのか。その辺を理解するにはソニー労組の成り立ちから説きおこさなければならない。
ソニー労組ができたのは、三十一年二月のこと。東通工時代からあった社員の親睦団体「通友会」を解散発展させたもので、他社の労組のように労使が対決、交渉に臨むという性格のものではなかった。だが、会社が成長するにつれて、従業員も増えてくる。組合発足当時四九〇名だった従業員も、三十五年四月には三一〇〇名近くにふくれあがっていた。勢い、従業員の考え方や行動様式も以前とは違ってくる。井深がこんな話をしている。三十五年五月の創立一四周年の記念式典での挨拶の一節である。
「ソニーも大きくなりました。私が式場の受付にいくと、〈入場整理券をおもちですか〉と聞かれた。私が社長の井深ですので、みなさん、よく顔を覚えておいてください」
つまり会社が急成長をとげた反面、社長の顔も知らない社員も出てきたわけだ。その一年後には社員はさらに増えたから、会社幹部の顔を見たこともない人も大勢いた。とりわけ、その傾向は、厚木のトランジスタ工場に多く見られた。地方から出てきた中卒社員が多かったからだ。
もともと、ソニーは、大学、高専出の技術者の比率が高い会社であった。昭和二十八、九年には、高学歴者が全社員の三分の一を占めていた。しかし、トランジスタとトランジスタラジオを手がけたことで、中卒従業員をどんどん採用した。これで頭でっかちの現象はだいぶ是正された。しかし、若い中卒従業員は現場の生産要員が主体だったから、給与や待遇面で必ずしも恵まれていたとはいいがたい。それは仕方がないものとしても、仕事が忙しすぎた。「これじゃ休みたくても、休めない」そんな不満が、末端の従業員の間に少しずつ拡がっていた。組合活動の強化を狙っていた労組幹部がそれを見逃すはずがない。こうした若者や組合幹部の微妙な意識の変化を、多くの管理者はまったく気がつかなかった。トップの経営方針についていくだけで精一杯だったのである。
一方、創業の理念実現に執念を燃やす首脳陣は、「みんなが一つになって頑張ってくれる。だからうちは急成長できたのだ」と、頭から従業員を信じきっていた。だが、その信頼感が甘かったことを知る。三十五年一二月におきた〈年末一時金スト〉がそれであった。これには井深、盛田も大きなショックを受けた。このときは労使間の話合いもまとまり、ストライキは四八時間で終わり大事にいたらなかった。
ところが年があけると、会社側が現行の労働協約破棄を通告し、組合が騒ぎはじめた。これは、三十四年夏に行なった組合綱領改訂をめぐる労使の対立が発端だった。前にも触れたように、ソニー労組は「会社あっての組合」という穏健な姿勢を一貫してとってきた。しかし、安保問題で政情がきびしくなった三十五年後半から、急進派組合幹部は政治色の強い言動を公然ととりはじめる。そしてこれまでの組合のあり方を否定するような条項を協約のなかに盛り込めと要求してきた。もちろん、会社側は拒絶した。その後、両者はこの問題を巡って何回か話し合ったが、意見が噛み合わず平行線をたどったままだった。そこで会社側はあえて協約破棄という強硬手段をとったのである。
これを契機に組合側も挑戦的になった。春闘にひっかけて会社側をゆさぶろうとしたのだ。ところが、強気の戦術を否定する組合員も出てきた。それが次第に新組合結成の動きに代わってくる。急進派の組合幹部はこれを無視し、矢継ぎ早に新しい指令を出し、主導権を握ろうと策した。これを見た穏健派の従業員は、いっせいに組合を離脱、新組合結成に走った。三十六年三月終わりのことだった。