組合が二つに割れたことで労務担当役員は、席を暖める暇がなくなった。二つの組合との団体交渉、トップとの対策会議と重要課題が山積していたからだ。創立一五周年に当たった「三六年春闘」の組合のベア要求額と会社側の回答額は一〇〇〇円近いへだたりがあった。交渉が難航するのも当然であった。とくに第一組合であるソニー労組は次第に対決姿勢を強めてくる。たとえば、四月一九日には一三名の無期限指名スト。二七日には団交の途中、突然、半日ストを強行するなど、徹底抗戦の構えをみせる。そして、五月二日および四日には二四時間スト、さらに六日の七二時間ストの通告と、次々に戦術をエスカレートさせていった。会社にとって大事な記念行事の当日にストを行なうといえば、会社側も自分たちの要求をのまざるを得なくなるだろうと考えたのだ。
やがて八日の朝を迎える。外壁の白さが目立つ本社工場の出入口や道路にデモ隊がひしめき、ピケを張った。ソニー労組員と、応援にかけつけた外部団体の労組関係者たちである。周辺には挑発的な文字をなぐり書きしたプラカードが林立する。宣伝カーからアジ演説が流れる。明治通りをはさんだ反対側の歩道にはストに参加しない従業員が集まってきた。閑静な御殿山周辺の住宅街は、異様な雰囲気に包まれていった。
そんな騒ぎをよそに、数日前から社内に泊り込んでいた盛田以下十数名の幹部社員は、窓辺に立ち、紅白の幕を張るなど、あたかも式典の準備をはじめているかのように振舞った。しかし、招待客はいっこうに現われない。出入口でピケを張る労組員の顔に焦りの色が出てくる。
その頃、井深は、高輪プリンスホテルの会場で、招待客に今日の経過を報告しながら、〈今後もかわらぬご支援を賜りたい〉と挨拶をしていた。本社前のデモ隊はその事実を誰も知らなかった。そのうち誰かが「式典は別のところでやっている。オレたちは裏をかかれたらしい」と、絶叫した。招待客の来るのを待ちあぐねていた組合員や支援団体の関係者は、その一声で完全に気勢をそがれてしまった。会社側の巧妙な欺瞞作戦に見事にひっかかったことにやっと気がついたのである。
敗北感を味わった組合は、三日におよんだストを打ち終えると、戦術転換を行なった。力ずくでは問題は解決しないと悟ったらしい。労使交渉の争点だったベア問題も、初任給改訂を盛り込んだ会社側の提示案を新労がのんだことで、解決の兆しが見えてきた。しかし、思わぬことで世間に醜態をさらけ出したことは紛れもない事実である。とくにマスコミがこの一連の騒動をおもしろおかしく報じたせいか、争議終了後も何かと物議をかもした。だが、ソニーの経営陣に対しては割と好意的な記述が多かった。それがせめてもの救いだった。
とはいえ、井深、盛田の受けたショックははかりしれないものがあった。なかでも井深がいちばん重く見たのは、厚木工場から多数のスト参加者が出たことだった。しかも、「トランジスタ娘」がバス七台に分乗してピケ隊に加わっていた。この事実をあとで知った井深は愕然とした。
厚木工場をつくるとき、首脳陣がいちばん気を使ったのは、トランジスタ娘を受け入れる女子寮である。女子寮は、地方から出て来た若い女性の生活の場になるところだけに、不自由な思いをさせてはいけない。設備も最新なものを揃えたし、各種の稽古事の場もつくった。三十六年には、新卒者のために高等学校の講座を開き、勉学の機会を与えるなど最善をつくした。にもかかわらず、こんな結果を招いた。それが気になった井深は、さっそく厚木工場の実情を調べさせた。
その結果、会社と寮の往復に明け暮れ、生活が単調になっている、本社と一体感がない、管理者との対話の機会が少ない、刺激がなさすぎるなど、いろいろ問題があったことがわかった。労務管理が稚拙だったところに問題の根があったというわけだ。
こうした一連のできごとは首脳陣にとって大きな反省材料になった。自分たちが〈理想工場〉の実現をめざしてやってきたことが、末端では、必ずしも理解されていない。急成長のひずみがそんな形で表面に出ようとは、井深自身は考えもしなかった。前にすすむことのみに専念しすぎ、細かい気配りが足りなかったのかもしれない。トップの考え方なり、意見を全社に徹底させ、ベクトルを一つにまとめていくことのむずかしさを井深は改めて知った。そういう意味では、こんどのストライキは首脳陣にとって貴重な体験だった。
ADR問題、スト騒ぎが一段落すると、井深の身辺は前にも増して忙しくなった。計画中の新製品を一日も早く市場に出すためだ。当面の目標は二つあった。一つは、すでに試作を終えた五インチのマイクロテレビの仕上げを急ぐこと、もう一つは、まったく新しい方式のカラーテレビの開発である。
ところが、三十七年は年初から賓客が多かった。二月九日にはアメリカ司法長官のロバート・ケネディ夫妻が来訪した。二月一九日には天皇、皇后両陛下の工場見学が決定した。その知らせを受けたとき、井深と盛田は、一瞬、喜びと不安が交錯した複雑な心境になった。ストの後遺症があったからである。
もっとも、ソニーが皇族を迎えるのは今回がはじめてではない。昭和二十七年の義宮を皮切りに、秩父宮妃、高松宮夫妻、三笠宮夫妻にもお越しいただいている。三十五年九月には、成婚を終えて間もない皇太子夫妻をお迎えする栄誉に浴している。だが両陛下のお越しとなるとやはり事情が変わってくる。陛下の場合は、沿道の警備の問題があるため、到着からお帰りになるまでの時間が、分刻みで決まっている。それだけに見学コースも慎重に選ばないと、あとでいろいろ差しさわりがおきる。そこで盛田が中心になり、万全の対策を立てることになった。
その予定日の直前、皇后陛下が風邪をひかれるなどのアクシデントが起き、来社が実現したのは一ヵ月後の三月下旬であった。社内の先導は、井深が天皇陛下、皇后陛下は盛田が担当したが、盛田の説明が長びき、見学時間が予定より一五分も遅れ、警備陣をハラハラさせたそうである。
このとき、ちょっとしたハプニングがあった。貴賓室で休憩された両陛下に、完成したばかりのマイクロテレビを見せ「これはまだ世の中に出ていませんから」と、井深が口止めしたことだ。マイクロテレビ発売(四月一七日)後、この話が一部週刊誌で報道されたため、マイクロテレビは、一躍人気商品の仲間入りを果たした。