両陛下がソニーの工場を見学されたとき、井深はもう一つ開発中の機器を見せている。クロマトロン管を使用したカラーテレビの試作機である。これは、三十六年二月、ニューヨークで開かれたIREショーに出展のため出張した木原が、たまたま会場で見つけたことから開発がはじまったものだ。
「われわれもあの展覧会にSV‐201という世界最小のVTRと、それに使用するためにわざわざ開発した塗布型のメタルテープ《Hi・D(ハイ・デンシティ)》を参考出品することになった。そこで盛田副社長と私、それに数人の技術屋とが一緒に渡米したわけです。そして手のあいた時間を利用して各社のブースを見て回った。そのとき偶然見つけたのが問題のブラウン管だった。私はそういうところで、変わったものを発見するのが得意でしてね。さっそく盛田さんに『すばらしく明るいブラウン管が出ていますよ』と声をかけ、オートメトリック社のブースに引っ張っていったんです」(木原信敏)
同社のブースには、タイプライターを打つとブラウン管の画面に文字が表示される、現在のワープロのようなディスプレーが展示してあった。それを盛田に見てもらったうえで、こんどはRCA社のブースまで盛田を引っ張っていった。そこには空港から飛行機の発着する状況を点と線で表示する航空管制用のディスプレーシステムが展示されていた。
はじめ木原が何をいわんとしているのか見当がつかなかった盛田も、それを見てやっとわけがわかった。ブラウン管の明るさがまったく違うのである。RCAのシステムは照明のない真っ暗な部屋に設置されている。そうしないとブラウン管に表示される点と線が見にくいのだ。これに対しオートメトリック社のブラウン管は、さんさんと輝く照明の下でもきれいに見える。これには盛田も驚いたらしい。
だが、さすがに技術屋である。さっそく、オートメトリック社とコンタクトを取り、木原と連れ立って同社のオフィスを訪ねた。そして、いろいろと事情を聞いてみた。その結果次のようなことがわかった。
オートメトリック社の出展品のディスプレーに使われているブラウン管、クロマトロン管は、アメリカ・カリフォルニア大学の教授で、サイクロトロンの発明でノーベル賞を受賞したアーネスト・C・ローレンス博士が発明したもの。その基本特許はパラマウント映画会社が保有しており、自分たちは、その特許使用権を取得し、航空機用の敵味方識別兵器のディスプレーを実用化したという。そこで盛田は「このクロマトロン管をテレビに使うことは可能だろうか」と、単刀直入に聞いた。オートメトリック社のトップはしばらく考えていたが「自分たちはまだテレビの絵を出したことはないが、やり方によっては明るい絵を出せると思う」と答え、手近にあったコンソールタイプのモデルと幻灯機を使い、簡単な実験をしてみせた。たしかに明るい絵が出る。それを確認した盛田は、その場で技術導入契約を結びたいと申し入れた。
盛田がその気になったのは、それなりのわけがあった。当時、カラーテレビといえば、RCA社が開発したシャドウマスク方式の三電子銃カラー受像管というブラウン管を使うのが常識といわれていた。だが、このブラウン管は価格が高い。調整がむずかしい。故障が多いという欠点があった。しかも、肝心の画面は、据置型の白黒テレビに比べ見劣りがする。暗すぎるうえに、カラー本来の美しい色が出ないのだ。その頃、アメリカで白黒テレビが五〇〇〇万台も普及しているのに、カラーはわずか一〇〇万台。アメリカに次ぐ普及率を誇った日本では、白黒テレビ九〇〇万台にカラーはたった三〇〇台そこそこと低調をきわめていた。シャドウマスク方式のブラウン管の質の悪さが原因だったといっても過言でなかった。
それだけに、井深も、以前から「うちも、いずれカラーをやるときがくると思うが、そのときはこんな欠点だらけのシャドウマスクはやりたくない」と、公言していたほど。そんないきさつがあるだけに、盛田も、木原もきれいな画像を出せるクロマトロン管に飛びつく気になったのである。
オートメトリック社と技術導入契約は結んだものの、それを使ってカラーテレビをつくるには、基本特許をもっているパラマウント映画と技術援助契約を結ばなければならない。そこでパ社と交渉をはじめたが、ADR問題、スト騒ぎなどが重なって合意をみるまでに若干時間がかかった。そして三十六年一二月中旬、やっと話合いがまとまり調印を無事にすませることができた。
このカラーブラウン管は、シャドウマスク方式のブラウン管に比べ六倍の明るい画像が得られるという触れ込みだった。だが、盛田は必ずしも楽観はしていなかった。それどころか、単電子銃・点順次方式(色選別グリッドで周波数を順次替え、色の純度を調節できる)は、技術的には面白いが、機構が複雑になるだけに、システムの調整がむずかしいのではという一抹の不安さえ持っていた。それを承知であえて挑戦したのも、新しくて、よりよい製品をつくりたい一心からであった。
クロマトロンの開発をまかされたのは、当時、製造技術課長だった吉田進と、大越明男(早大理工学部電気工学科、二十八年入社、のち第一開発部長)と、宮岡千里など、数名の若手技術者だった。しかし、これが、会社の屋台骨をゆるがす難事業になろうとは、首脳陣は夢にも思っていなかった。