ソニーがニューヨークの中心マンハッタン島の目抜き通りフィフス・アベニュー(五番街)にショールームを開設したのは、昭和三十七年一〇月であった。オープニングの目玉になったのは、井深が「天皇に口止め」した五インチのマイクロテレビである。これが当たった。発売と同時に在庫品を含めて四〇〇〇台を売りきってしまった。このため、一一月には、パンアメリカンのチャーター便を二度飛ばし、マイクロテレビを空輸するなど嬉しい悲鳴をあげたほどであった。
これを契機に、盛田は、家族とともに現地に移住を決意する。巨大なアメリカ市場を相手に商売するには、やはり、アメリカ人の心をつかみ、理解するように努めなければならない。そのためにも、ニューヨークに生活の場をもつことが必要だと思ったのだ。さっそく、この構想を井深に打ち明けた。だが井深は難色を示した。副社長がそんな遠くにいては困るというのだ。それを強引に口説き落とし、盛田は現地移住を納得させてしまった。
井深も、たいへん自己主張の強い人だが、盛田の場合はそれを上回る。しかも、説得のテクニックにたけている。そういう意味でも井深、盛田のコンビは、日本の経営者のなかでも特異な存在だった。それは別として、なぜ井深が、盛田のアメリカ移住に難色を示したのか。それは、創業以来はじめてという試練に直面していたからである。その一つは、厚木工場の建て直し。もう一つは、開発に着手したクロマトロンテレビの難航であった。
前に触れたように、厚木工場はトランジスタ量産のためにつくられた専用工場である。開設当初はゲルマニウムトランジスタの生産が主体だったが、マイクロテレビ発売を契機にテレビ用シリコントランジスタの製造部隊も厚木に移った。ところが、生産を開始すると予期しないトラブルが続出し、歩留りは低下するばかり。このためマイクロテレビの生産計画に支障が出はじめた。従業員の生産意欲の欠如が原因であった。前年の〈記念スト〉の後遺症がそんな形で出てきたのである。
もちろん経営陣もそのギャップを埋めるべく、懸命の努力を続けた。小林茂(のち常務)を工場長に据えたのもそのためであった。小林はもともと労務屋で、トランジスタのトの字も知らない。井深がその小林に工場運営の全権をまかせたのも、労務管理に特異な才能をもっていたからだ。事実、小林は盛田夫人の生家である三省堂書店の労組委員長を振り出しに、都労委労働側委員、共同印刷労務担当役員などを歴任している。とくに共同印刷では大争議解決に重要な役割を果たし、一躍、労働界で有名になった。井深はその経験と特異な才覚をかったのである。
厚木工場の運営をまかされた小林は、就任の第一声で「私は、トランジスタのことは何も知りません。しかし、人間が大好きです。ともに力を合わせて、この工場を世界一の工場にしましょう」と呼びかけた。そして、これからは〈人間信頼〉を根底においた工場運営をしていくと宣言した。
つまり、命令によって人を動かすとか、従業員を単なる生産要員として見るのをやめ、まず各人が気持ちよく働ける環境をつくる。そのうえで、従業員の自主性、創造性を育てていこうと考えたのだ。その手はじめに小林は革新的な対応策を次々に打ち出し、関係者を驚かした。毎月の生産目標を従業員に決めさせるなどは、その典型的なケースかもしれない。こう書くと、労組による生産管理のように見えるが、中身はまったく違う。会社側はあらかじめ在庫品の量やその月の需要見通しを細かく説明しておく。その説明をもとに現場の代表者が集まって自主的に目標数量を決め、会社側に承認を求めるようになっていた。
そして、従業員代表は、月末に必ず反省会を開き、生産目標に対する成果はどうであったかを検討する。その結果を次の仕事に活かしていく、という仕組みである。従業員主体の目標管理だが、一般にいわれる目標管理と違うのは、目標達成率を各人の業績評価に結びつけず、あくまでも、従業員個人の自発性を育てる手段に使っていることである。社員食堂に無人スタンドを導入したり、タイムカードの廃止に踏みきったのもその現われであった。
こうしたやり方は、従業員に好感をもって迎えられた。同時に仕事に取り組む姿勢も少しずつ変化してきた。とはいえ、即、歩留り向上につながるとは限らない。それが現場管理者の共通の悩みであった。
だが、なかには意欲的な女子従業員もいる。それを身をもって体験したのは塚本である。彼女がエピタキシャルの製造装置に入っている化学薬品に異常があるのではと訴えてきたことから話がはじまった。
「たまたま、その女性が、エピの温度を上げようと、材料の入った装置のフタをあけたらしい。そうしたら何かヘンなにおいがする。これはおかしいとぼくのところに報告にきたわけです。さっそく、問題の装置を見に行ったが、彼女が指摘するにおいは、ぼくにはまったくわからない。でも、念のために材料を化学分解し、評価してみたが、これといった異常は認められなかった。だが、彼女は絶対おかしいといいはるんです。その言葉を信じて材料を変えて試してみたら、いままで散々手をやいていた歩留りがとたんによくなった。これにはぼくもびっくりしましたね。同じ女性でも意欲的な人がやっていると、ぼく等の気づかない問題点をピタッといいあてる能力を発揮するんですからね」
と、塚本は当時を語るが、おそらく、以前だったら、こうした現場作業者の意見を採り上げることはなかったかもしれない。厚木工場の雰囲気は少しずつよくなってきていたのである。