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創造の人生51

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:苦境 本社の開発陣は、第四、第五の新製品であるVTRとカラーテレビの試作に総力をあげて取り組んでいた。なかでも、悪戦苦闘
(单词翻译:双击或拖选)
 苦境
 
 本社の開発陣は、第四、第五の新製品であるVTRとカラーテレビの試作に総力をあげて取り組んでいた。なかでも、悪戦苦闘を繰り返していたのは、吉田を中心としたクロマトロン部隊である。
 昭和三十六年一二月パラマウント映画とクロマトロン管および、これを使ったカラー受像機の製造に関する技術契約を結んだソニーは、ローレンス教授の考案した設計理論にしたがって試作機をつくってみた。三十七年三月両陛下に見せたのはこの試作機だった。原理や設計概念はそれでわかったが、市販するにはこれを量産が可能なように改良していかなければならない。問題はその過程で発生した。マニュアルに書いていないやっかいな問題やトラブルが次々に起きたのだ。
 たとえば、電子ビームの絞り方がむずかしく、画面輝度と画の鮮明さを両立させることが容易でない、色純度の安定確保がむずかしい、条件を充たす後段加速グリッドがなかなかできないこと、などであった。開発陣は、何度も試行錯誤を繰り返し挑戦してみたが、成果はいっこうに上がらなかった。
 このため、当初予定した開発資金はたちまち底をつき、新たな出費を強いられた。それも年を追うごとにかさみ、会社の収益に悪影響を及ぼしかねない危険な兆しさえ出てきた。井深も、盛田も、ことの重大性に気づいたが、いまさらあとに引くわけにはいかない。トップのきびしい視線を背にしながら、吉田たちは死にもの狂いで開発に取り組んだ。その苦労がやっと実り、三十九年には単電子銃・点順次方式の一九型クロマトロンカラー受像機をつくりあげ、報道機関に公開するところまで漕ぎつけた。
 だが、この試作機の商品化は見送られた。色識別グリッドの生産性と、画像の〈質〉に不安があったからである。吉田たちは、この方式と同じようにデルタ配列された三電子銃方式のクロマトロン管の開発を思いたった。このブラウン管は、これまでの苦労の積み上げがあったせいもあって、四十年春に完成、六月にはそれを組み込んだカラーテレビを、ともかく発売することができた。このカラーテレビは、画像の質も、商品として恥ずかしくない水準に達していた。そういう意味では吉田たちの努力もムダではなかったわけだ。しかし、惜しむらくは、このテレビは工程が複雑すぎて製造コストが高くなりすぎた。そのうえ、故障が多いなどの欠点があった。極端かもしれないが、吉田たちの血と汗の結晶であるクロマトロンカラーテレビは、つくればつくるほど赤字が増えるというやっかいなシロモノだったのである。
 思いがけない結果に、さすがの井深も考え込んでしまった。現に、役員会の席で「やはり、われわれもシャドウマスクを考える必要があるんじゃないかね」と、弱音を吐いたほどであった。しかし、それは井深にとって敗北を意味する。その愚はなんとしても避けなければならない。自身の誇りも傷つくし、社員の士気にも影響するからだ。そこで井深は、もう一度すべてを白紙に戻し、再挑戦することを心に決めた。その直後の役員会で、井深ははじめて自分の意中を打ち明けた。
「ここでクロマトロンにこだわっていたら、いつまでたっても先へすすめない。だから、この際、クロマトロンに変わる新しい方式をさぐってみようじゃないか。ぼくにはそれが最善の策だと思う。その代わり、こんどはぼく自身が陣頭指揮をとるつもりだ」
 この提案に、盛田はすぐ賛成した。そして「必要な資金はすべて私が考えます。あとは井深さんの考え通りやってください」と、積極的な支援を誓った。こうして吉田たちは、井深の指示のもとに社運を賭けたブレークスルーにふたたび挑戦をはじめたのである。
「ソニーがカラーテレビで行き詰まり、苦境に立っているらしい」という噂が業界に流れた。これをマスコミが見逃すはずがない。取材が殺到した。ところが、井深は、記者たちの意地の悪い質問にも動揺の色を見せない。それどころか、当時、業界の流行でもあったカラーテレビの輸出競争を次のようにこきおろした。
「いまの業界の行き方は納得できないね。だってそうじゃないか。日本のカラーテレビの生産量は、全メーカーを合わせてもせいぜい月に一万台。これに対しアメリカのそれは二〇万台。これだけ生産量に差があって、輸出したのでは儲かるはずがない。数年後には、日本にもカラーテレビの時代がやってくるだろうが、それから本格的な輸出に乗り出してもおそくないと、ぼくは思っているんですよ」
 井深は、もともと工場歩きが大好きという根っからの技術屋である。ところが、三十七年四月、経済同友会の幹事に就任してからは、財界との交遊や社外活動が増え、工場で過ごす機会が少なくなっていた。これは井深にとってたいへん苦痛であった。しかし、いまは違う。開発部隊に交じって、ああでもない、こうでもないと議論しているうちに、自然に自信が湧いてきて、本来の自分に戻ったような気になれる。そんな微妙な心の変化が、強気の発言になったのかもしれない。
 開発陣のムードが盛り上がってきた昭和四十一年夏、吉田は半導体部門の塚本や数人のメカ関係者とともに渡米した。提携関係にあるGE社との情報交換と市場調査が目的であった。このとき吉田が関心をもったのは、一年前GE社が発表した〈ポルトカラー〉だった。これはGE技術陣がRCAのシャドウマスク方式に対抗して開発した水平配列型の三電子銃方式のカラーブラウン管を使った一三インチの小型テレビである。一見したところ、画像の質は自分たちの開発したクロマトロン管とほとんど差はないと思ったが、シャドウマスクと電子銃を水平に配列した簡素な構造には強烈な印象を受けた。画像の質さえ改善すればすばらしいカラーブラウン管が得られるのではないかと思ったのである。
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