帰国した吉田は、アメリカで見聞したことを技術幹部会の席で報告した。そのなかに「RCAの技術が以前と比較にならないほどすすみ、画面の明るいブラウン管が大量につくられている。これは蛍光材料を、これまでの酸化物から希土類に切り換えたためらしい」という話もつけ加えた。これを聞いた首脳陣は「今年中に量産のメドが立たなければ、クロマトロンの改良はあきらめて、シャドウマスクに切り換えるしかないな」と、消極的な姿勢を示した。
吉田は、一瞬、返答に窮した。自分がいいたかったのは、GEのポルトカラーをヒントに電子銃を改良すれば思いがけない結果が得られるかもしれないということだったからである。
しかし、それも確信があったわけでなく、あくまでも技術屋のカンで、そう思っただけである。そこに吉田の苦しさがあった。思案にあまった吉田は「単電子銃内に電子ビームを三本走らせることができるかどうか、実験してみよう」と、現場に提案してみた。だが、反応は意外に冷たい。やってもムダといわんばかりの雰囲気であった。吉田はそれを無視して実験着手を命じた。
そのとき吉田が指示した基本条件は、(1)電子ビームは水平配列にすること、(2)電子銃は単電子銃であること、の二つであった。その発想の根拠はGE社のポルトカラーにあったことはいうまでもない。つまり、最初に開発した単電子銃、複電子ビームの質が悪かったのは、三つの電子ビームがレンズを通過する位置がはなれすぎていたために起こったもの。ビームを近づければ問題は解決できる。また、二度目につくった三電子銃クロマトロンの製造コストが割高になったのも、部品点数が多すぎたことに起因している。部品点数の少ない電子銃はコスト的に絶対有利と判断したのだ。
開発陣は、さっそく実験にとりかかった。ところが、おおかたの予想に反し、好ましい結果が出た。その知らせを聞いた井深も、実験結果を自分の目で確かめた。
「これは筋がよさそうだ。これでやってみるかー」
この井深の一声で、プロジェクトの〈GOサイン〉が出た。吉田、大越、宮岡たちの本格的な挑戦はそれからはじまった。ほぼ五年におよぶクロマトロンの開発、設計で苦しんできた歴史があるだけに、新型電子銃の開発は順調にすすんだ。四十一年暮れには原型をつくりあげることに成功する。テストの結果も上々だった。電子銃開発の目安がつくと、電子銃から発射される三種類の電子ビームの色選別機構の開発というやっかいな仕事がある。当時、大多数のメーカーはRCAが開発したシャドウマスク方式を使っていたが、吉田たちは、あえてこの方式の採用を避けた。自分たちが目標としている明るい画質が得られないからである。開発陣の苦闘が続いた。
井深も毎日のように研究室に顔を出し、助言や激励を繰り返した。とはいえ、心はかつてのトランジスタ開発当初と同じで、常に期待と不安で揺れ動いていたろうが、決して表に出さなかった。最後にブラウン管のガラスバルブが残った。普通、担当者が図面を引き、専門の型屋に発注するのが常識だった。しかし、クロマトロン管作成のときの技術蓄積があるだけに、大越は「これはオレがつくる」と、自分が石膏で型をつくった。これを外部のガラスバルブメーカーに渡し、試作品をつくってもらえばいいわけだ。
待望のブラウン管ガラスバルブが届いたのは、四十二年一〇月一五日。夜を徹して組立てを行ない、翌日の午前中、やっと新しいブラウン管をつくりあげた。その年の春、水平配列の新型電子銃とアパチュアグリル、ガラスバルブを配した第一号の一三型カラー受像機が完成した。
新しい電子銃を組み入れたテレビは画面も明るいし、色調も申し分ない。知らせを聞いて駆けつけた井深も、その画面を見て、一瞬、声をのんだ。そしてちょっと間をおいて「よく頑張った。ご苦労さんでした」といった。井深はもっと何かいいたかったのかもしれないが、胸が詰まって、あとは声にならなかったのだ。
完成したカラーテレビは「トリニトロン」と命名された。キリスト教でいうトリニティ(父と子と聖霊の三位一体)と、エレクトロン(電子管)の合成語だった。もちろん、名づけ親はクリスチャンである井深であった。製品発表会は、翌四十三年四月一五日、オープン二年目を迎えた銀座のソニービル八階ホールで行なわれた。
会場での反応はさまざまであった。なかには「電子銃の組立て精度がきつく、量産には向かないのでは」とか、「アパチュアグリルの形状を見れば大型管は不可能のような気がする」といった意地の悪い質問をぶつける記者もいた。吉田たち開発担当者は、それを巧みにかわし、発表会は無事に終わるかに見えた。
ところが、ここでふたたび壇上に上がった井深が、思いがけないことを口にした。「発売は一〇月中、年内に一万台の量産を行なう」と宣言したのである。これには吉田たちはアッと声をあげた。「そんな無茶な!」と、思ったのだ。やっと一〇台の試作機ができたばかり。これを量産にもっていくにはそれなりの手順もあるし、技術的なツメも必要である。それを知りながら一万台の量産を公言する。吉田は井深が憎らしくなった。苦労して一つの壁をクリアすると、もう次の新しいハードルを設定して、これを越えるのがお前たちの仕事といわんばかりにけしかける。それが井深のいつもの手だとわかっていても、ときがときだけについそんな気になってしまったのである。