「必要な資金は、すべて私が考えます」と大見栄を切って井深を励ました盛田も、資金手当てにたいへんな苦労を強いられていた。緊急を要する先行投資が多すぎたからである。
JR山手線大崎駅前にあった園池製作所の本社工場の買収(敷地面積一万三八〇〇平方メートル、地上四階、地下一階、総面積二〇〇〇平方メートル)、マイクロテレビの量産化、VTR、カラーテレビの商品化、銀座ソニービル建設用地の買収資金など、新しい計画が目白押しで、資金はいくらあっても足りなかった。昭和三十八年四月、第二次ADR三〇〇万株公募に踏みきったのもその資金手当の一環であった。
ところが、東京オリンピックが開かれた三十九年九月を境に、世界の景気動向にかげりが見えはじめる。発端は、三十八年七月、アメリカ資本の海外流出に歯止めをかけるため、ケネディ大統領がとった苦肉の策であった。
当時、アメリカの大企業は、人件費の高騰と高率課税に悩んでいた。そこで海外への投資を名目に資産の分散をはかった。これを重大視したケネディは、資本の流出に対し一律一六・五パーセントの税金を課するという強硬手段をとった。いわゆる〈ケネディ・ショック〉の発動である。その結果、アメリカの海外投資ブームは沈静化の方向をたどりはじめた。ところが、その年の一一月、世界を震撼させるような事件が起きた。遊説中のケネディ大統領がダラスで暗殺されたことである。
アクシデントの連続は、世界の景気動向に微妙な影響をもたらした。もちろん、日本も例外ではなかった。とりわけ家電業界は、三十八年末頃から内需の停滞がはじまり、三十九年夏場には部品業界、家電販売店の倒産問題がにわかに表面化した。松下電器の松下幸之助会長が営業本部長代行に就任して話題になったのも、販売店、販売会社の苦情に対応して、新しい販売体制を確立するためであった。
これに拍車をかけたのが有名企業の倒産である。三十九年末の日本特殊鋼、サンウエーブの会社更生法申請、さらに四十年三月には、戦後最大といわれた山陽特殊鋼の会社更生法申請、ついで山一証券、大井証券など大証券会社の経営破綻など不祥事が相次いで起こった。いずれも、高度成長期に展開した背伸び経営がもたらした結果だといわれている。
六〇〇円台で時価発行されたソニーの株も、二五〇円にまで下がり、低迷を続ける始末。これでは資金を集めるのも容易でない。盛田が苦しむのも当然であった。
窮状を切り抜けるきっかけになったのは、昭和三十六年、ソニーと東北大学で共同研究の末、開発した高密度記録用のメタル磁気テープHi・Dテープである。このメタルテープは時期尚早を理由に商品化は見送られたままになっていた。その活用の機会を模索していたのは研究部の植村三良であった。
「私はあのテープ開発のとき進行係をやっていた。それだけに開発にどれだけお金がかかったかよく知っています。そんな苦労をしてつくったテープをそのままにしておくのはなんとしてももったいない。そこで盛田さんの了解を得て、IBMにサンプルを送ったんです。オーディオやビデオ用だと互換性の問題があって使えない。それならコンピュータ用にどうだろうと考えたのです」(植村三良)
IBMはこのテープに異常な関心を示した。当時、IBMが使っていたコンピュータ用の磁気テープは、3M社の製品一辺倒であった。これは経営戦略をすすめるうえでもあまり好ましいことではない。そこでIBMは大型のコーティングマシンを購入、実験的に磁気テープの試作をはじめた。だがいくら努力しても条件を充たす磁気テープができない。IBMにはそれだけのノウハウがなかったからである。
ソニーが送った磁気テープのサンプルが届き、さっそくテストしてみると非常によい結果が出た。報告を受けたIBMのワトソン会長は、ソニーとの共同研究を思いたち、日本を訪れた。昭和四十年秋のことであった。盛田と会ったワトソン会長は次のように提案した。
「おたくのテープを見せてもらいました。あれだけの技術があれば、コンピュータ用のテープは必ずできるはずです。一つうちとフィフティフィフティの合弁会社をつくってテープ製造をやる気はありませんか。工場の場所は日本でもアメリカでもかまわない。もちろん、そこでできたテープは全部私どもで買い取ります」
この話に盛田は乗り気になった。だが、結局まとまらなかった。技術陣が「顧客がIBM一社だけというのは、買いたたかれる恐れがあるから危険だ」と、難色を示したからである。
合弁会社構想は消えたが、IBMはなんとしても磁気テープの製造ノウハウがほしい。そこで方針を変え、工場建設から製造までの技術供与を求めてきた。磁気テープのつくり方を全部教えてくれと頭を下げてきたわけだ。これで話合いがまとまり、昭和四十年一一月、ソニーはIBMと電子計算機用磁気テープの製造技術契約と、新しい磁気記録媒体の共同研究ならびに技術援助契約を結んだ(昭和四十一年一月、政府の正式認可を得て発効)。
「あのときIBMは、自社の保有する磁気録音に関する未公開の技術、それも特許を含めて公開するから、ソニーで自由に使ってよいという条件を提示してきたんです。そのなかにはコンピュータテープに高速でデータを書き込んだり、演算する技術も入っていた。ところが、盛田さんは、うちはコンシューマのものしかつくっていないからといって断わり、ロイヤルティだけもらった。だが、本当はあのノウハウはもらっておくべきだった。そうすれば、ソニーにとってたいへんな武器になっていたはずなんですがね」
と、植村は残念がる。しかし、当時の盛田はすぐには使えない技術より、先行投資に役立つ資金がなんとしてもほしかったのだ。