IBMへの技術輸出は、ソニーに多額のロイヤルティをもたらしただけでなく、有形無形の相乗効果を生んだ。金銭面では、契約一時金一〇万ドル、ロイヤルティとして一巻あたり一〇セントの対価を、向こう一〇年間、IBMから受け取ることができること。対外的には信用と宣伝効果がある。当時の新聞はこの快挙を次のように報じている。
「いまIBMといえば、電子計算機では世界市場の七割を押える巨大企業。そこへ電子計算機の頭脳ともいえる記憶装置用の磁気テープのつくり方を教えるのだから、外国技術導入に明け暮れる日本の産業界にとって近頃にない朗報だ」(四十一年二月、朝日新聞)
そのうえ、IBMにソニーの株式を大量に売るという副産物まで飛び出した。これは財務担当の吉井の努力で実現したものだ。その前後のいきさつを簡単に振り返ってみよう。
前述のように〈ケネディ・ショック〉に端を発した四十年不況の反動で、ソニーの株価は完全に低迷期に入った。このため首脳陣が予定していた資本調達に狂いが出てきた。放置しておけば取り返しのつかない事態を招く。心配した吉井はひそかに打開策を模索していた。その結果、外人投資の誘致によって、当面の窮状を切り抜けようとはかった。その緒口をどこに求めるかが問題になった。
そんな矢先、IBMへの技術輸出の話がまとまった。IBMは世界有数の大企業だし、資本量も豊富だ。そのIBMに技術援助を提供するだけでなく、株をもってもらえば両社の絆はもっと深くなるに違いない。ソニーの株ももっと高くなる可能性を秘めている。そこをうまく強調すれば、話はまとまるかもしれないと吉井は思った。さっそく、井深と盛田に自分の構想を打ち明けた。井深も盛田も双手をあげて賛成してくれた。
トップの承認を得た吉井は、単身渡米した。そして契約交渉の際知り合った技術担当のバーケンシュタック副社長をIBM本社に訪ねた。
話合いは思いのほかうまく運んだ。バーケンシュタックが、インターナショナルセクションの財務担当者を紹介してくれ、時価六三三円の株を五〇万株引き受けてくれるという話がまとまったのだ。これをきっかけにソニー株は見直され、一気に一〇〇〇円台に突入する。これが口火となり、ふたたび日本に外人投資ブームが起こった。吉井は、ソニーの危機を救っただけでなく、低迷を続けていた証券市場の活性化にも一役かったわけだ。
IBMがソニー株を購入する気になったのは、ソニー全体の技術力を高く評価したからにほかならない。ソニー技術陣はケネディ・ショック以降も画期的な商品づくりに挑戦を続け、内外で注目されていた。その商品の一つに電子式卓上計算機がある。これはIBMへの技術輸出のきっかけをつくった研究部長の植村が道楽半分に考案したものであった。
植村は東京物理学校を出て、東北大理学部修士課程にすすみ、数学を専攻するかたわら、永井研究室でアルバイトがわりに助手を務めた。井深との交遊がはじまったのもその頃である。助教授時代には、陸軍技術研究所の嘱託となり、ドイツから技術導入したウルツブルクレーダー開発要員として活躍した実績ももっている。その植村が、戦後、鉄道技研を経てソニーに入ったのも、研究部門を強化してくれと井深に頼まれたのがきっかけである。ソニーに移っても、商品づくりにはいっさい関与せず、もっぱら、基礎研究を勝手気ままにやってきた。井深は文句をいわない。植村の才能を高く評価していたからだ。そんな個性的な植村も、若い研究者の育成には人一倍情熱を燃やした。その植村はいう。
「私が入った頃のソニーは、アマチュア無線家の集まりのようなもの。それはそれでいいのだが、やはり事業を伸ばしていくためには、アマチュアから脱皮していかなければならない。たとえば、技術者が何かを開発する。その場合、普通の研究所だったら必ず技術論文を書きます。ところが、ソニーの技術者は目先の仕事に追われ、それをまとめる暇がない。かりに書いても、たいていの人は自分の机の引き出しにしまい込んでいる。これじゃ宝のもちぐされだし、技術蓄積はできません。そこで私は、若い研究者に研究報告を書け、学界に顔を出し、研究成果を発表しろ、大学の研究者と積極的に交流せよと、やかましくいい続けたわけです」
植村の徹底した指導ぶりが実を結び、技術レポートの体系化が実現した。社内で、技術者同士がディスカッションする技術発表会も定期的に開かれるようになった。これがのちにソニーの技術レベルを高める原動力になるのである。
植村が卓上電算機の開発を思いたったのも、IBMへテープのサンプルを送ったのと同じ発想であった。廃棄処分になるはずのトランジスタを再活用することを思いついたのがきっかけだった。
昭和三十六年の〈記念スト〉の後遺症でガタガタになった厚木工場の生産体制も、小林新工場長ら工場幹部の懸命な再建工作が実り、職場の雰囲気も少しずつ明るさを取り戻してきた。しかし、歩留りは相変わらずパッとせず、不合格品は増える一方だった。たまたま、工場に顔を出した植村はこれに目をつけた。このトランジスタはラジオやテレビには使えないかもしれないが、デジタル回路のスイッチングに使えるのではと思ったのだ。
そこで、植村はその不良品をもらい受け、研究部にもち帰った。そのなかから使えそうなトランジスタを一〇〇〇個ほど選び、数人の部下を動員して電算機用の回路の試作にとりかかった。三十六年末頃の話である。