最初、植村は道楽のつもりで開発をはじめたが、試作がすすむうちにだんだん熱が入ってくる。つくりあげた試作機はおもちゃの域を出なかったが、部内の評判はすこぶるいい。これに気をよくした植村は、本気で計算機の開発に取り組むことにした。いずれ近い将来、現在のアナログ技術にとって代わり、デジタル技術がものをいう時代がくると確信していたからであった。
植村は、ときを見はからって、自分の構想を井深に話した。井深は「そんなものをやっても商売にならんよ」と、まったく話にのってくれない。植村は「捨てるトランジスタを使ってつくるので、原価は安いです。だからやらせてください」と、執拗にねばった。井深も頑固なことでは有名だが、植村もその点ではひけをとらない。メタルテープの開発過程で、仙台工場長の高崎を相手に派手なケンカを演ずるなど、骨っぽいところを見せている。そんな植村の気性を知っている井深は、適当にあしらって追い返してしまった。
だが、植村はいっこうにへこたれない。それどころか、独断で仕事をさっさとすすめてしまう。ソニーのためになると信じきっているのだ。だが、その後、内緒で開発をすすめているのを井深に見つかりこっぴどく叱られた。
普通の会社なら、開発はそこでストップさせられる。しかし、井深は、なぜかそうしなかった。開発中の試作機を見ているうちに気が変わったらしい。「ソロバンの代わりになるようなものになるならやってもいい。その代わり、大型は絶対にダメだ」と、釘をさすことを忘れなかった。植村も、はじめからそんな気持ちは毛頭もっていなかった。日電や日立、富士通といった大メーカーが、IBMの後を追い、電算機の大型化、高速化に取り組み、四苦八苦しているのを知っていたからだ。
しかし、井深のいう〈小さな電子ソロバン〉となると、開発計画を手直ししなければならない。機械を小型にするには消費電力を少なくすることが先決。とすれば、当然、使用するトランジスタ、回路、メモリなどに問題が出てくる。植村たちは、再検討をはじめるとともに、技術の再構築に取り組みはじめた。
最初の試作機〈MD‐3型〉のバラックセットができたのは、三十七年夏の終わりであった。この機械は電動タイプライターつきの八桁計算機で、答えはすぐタイプで打ち出せるようになっている。井深をはじめ技術幹部立ち会いのもとで行なわれたテストも上々だった。
〈電子ソロバン〉の開発が正式に認知された。力を得た植村たちは、この試作機をたたき台に商品化に向けて本格的な挑戦をはじめた。目標は低速動作でもよいが、消費電力をできるだけ少なくすることである。そのためのシリコントランジスタ、シリコンダイオード、ハイブリッドICの開発が平行して行なわれた。改良機が何台かつくられた。だが、植村はいっこうに満足しない。
植村はもともと数学屋だけに、中途半端なことが大嫌いなタチである。それだけに部下に対しいつもきびしい姿勢で臨む。自分が気に入らなければ何度でもやり直しを命ずる。そのため開発陣はどれだけ泣かされたかわからない。やっとオールトランジスタの電子卓上計算機を完成させることができた。三十九年三月初旬のことである。
世界初と銘打ったソニーの〈MD‐5型〉電卓の記者発表が終わった直後の三月一八日、シャープ(当時、早川電機)も、オールトランジスタの電子式卓上計算機をはじめて公開した。この電卓に使われたトランジスタ、ダイオードは四〇〇〇本、大きさは底辺が一メートル四方、高さが五〇センチ近くもあった。その代わり二〇桁まで計算できる。それが売り物だった。これに対し、ソニーの八桁電卓〈MD‐5型〉は、シリコントランジスタ、シリコンダイオード八〇〇本。一部にICが使われていた。つまり、ソニーの機械は小型だが、計算能力はシャープのそれに劣る。技術的には両社優劣がつけがたい、未完成の機械だったわけだ。
ソニーは記者発表と同時に、この電卓をニューヨークで開かれた世界博に出展している。この博覧会は、世界各国が「自国の誇り」になるものを出展することになっている。その趣旨に沿って日本から選ばれたのが、巨大タンカー「日本丸」の模型とソニーのマイクロテレビ、BGM装置、VTR、そして発表したばかりのトランジスタ電卓であった。井深が「世界初のトランジスタ電卓は、うちが開発したもの」と強調するゆえんもそこにある。
しかし、実用化一番乗りを果たしたのは、シャープだった。四十年九月に発売に踏みきった一四桁電卓(重量一六キログラム、価格三七万九〇〇〇円)がそれであった。これを契機に新規参入メーカーが続出、電卓をめぐる環境はにわかに騒がしくなった。
そんな騒ぎをよそに、植村たちは〈MD‐5型〉の実用化研究に取り組んでいた。家庭の主婦が気軽に使えるような機械にするには、単に機械を小型軽量化するだけでなく、機能面の改良が必要だった。小数点表示をどうするかという問題もある。フローティング・デシマル、四捨五入方式の案出、パーセント表示、逆数をとることなど、考えることがたくさん残っていた。数学出身の植村らしいやり方であった。
惜しむらくは、理想を追いすぎたようだ。そのため実用機の開発は四十二年五月と大幅にずれ込んだ。しかも〈SOBAX〉と名づけられたこの電卓は、たしかに複雑な計算も容易にこなせる高機能機との呼び声も高かったが、価格は二六万円と割高になった。これでは家庭には入りにくい。とすれば、あとはオフィス、あるいは設計とか高度な計算を必要とする技術者を対象にするしか手がない。ところが、それらの人たちは機械的計算機の計算手順に慣れていて、植村たちの開発した〈算術方式〉の計算機に違和感をもち、なかなか使ってもらえそうもなかった。
そのうえ、ソニー、シャープに触発された新規参入メーカーが、同じような卓上電卓を開発。激しい値下げ競争を展開しはじめた。儲かりそうなものならなんでも手がけたがる日本産業界特有の〈便乗思想〉が、またぞろ頭をもたげてきたのだ。ソニー首脳陣は、卓上計算機からの撤退を決意する。この事業を継続するには多額な資金がいるし、リスクも大きいと判断したのだ。植村は失望の色を隠さなかった。せっかく育ちはじめたデジタル技術の芽を簡単に捨ててしまうトップの見通しの甘さにである(ソニーの開発したSOBAXは、のちにスミソニアン博物館に寄贈された)。