唐十郎は昔「僕は右翼的な作家だ」と云いました。なるほど、子宮をイメージした紅テントの中で繰り広げられる入れ子型の物語は、一つの観念に凝縮されてゆくダイナミズムに支配され、それは同時代の寺山修司のものとはともすれば、正反対のベクトルを有していたといえるのかもしれません。アングラが左翼のシンボルであった時代、そのような発言をした彼に敬意を表し、僕もこの際公言しましょう。「僕は皇室が大好きです」。
皇太子様ご成婚で皇室ブームに沸く昨今、僕には天皇制が政治的に何を意味するのかが解りませんし、興味もありません。僕にとって大切なのは、皇室が絶対的存在であることなのです。乙女がいつも憧れたのは、何処かの国のお姫様であり、魔法使いサリーちゃんでした。思えばそれは特権的存在への憧憬だったのです。皇室は現代に残された唯一の光のタブーです。僕達はどんなにお金持ちになろうとも、皇族になることは出来ません。皇族とは生まれながらにして皇族であり、誰も変えることがならないのです。この絶対差別の何と素晴らしいことでしょう。乙女の国に民主主義は必要ないのです。乙女は乙女の国の国粋主義者です。右翼思想とは、一つの真理が全てを導くエレガントな美意識であらねばなりません。
マスコミが日常に侵食し過ぎた現在、銀幕のスターはテレビで一般人との交際を公言するのもはばからない野暮な時代になりました。皇太子様のご結婚は、相手が一般人というのが多少残念ではあるものの、やはり皇族は皇族同士結婚して頂くのが、遺伝子上少し問題があろうともいと良ろしと思いはするものの、それでも皇室と僕らの距離には次元を超えた隔たりがあります。芸能人との結婚は作戦次第で誰にでもチャンスはあります。しかし皇室はそうはいきません。家柄や学歴、その他諸々の物理的不可能さが伴います。「世の中にはいくら頑張っても無理なことがある」──この教訓は今の時代にとって、とても爽々しく響き聞こえます。
結婚式には、六頭だての馬車が路上を走るそうです。忘れかけていた少女趣味的シチュエーションを、実現してしまう天皇家は偉大です。古しき言葉を操り、様式のベールを決して外さない宮内庁。開かれた皇室なんて必要ないのです。僕達は皇室アルバムで、遠くから貴方がたを眺めているだけで満足なのですから。