普段から「ルー大柴がカッコいい」とか「森本レオはセクシー」とか発言しているせいもあり、「私はホモの人に偏見はありません。野ばらさんも世間の眼に負けず頑張って下さい」というお手紙を頂いたりして、途方にくれてしまいます。別段ホモセクシャルに思われていても構わないのですが、実際そうではない僕にとって、それは弁明するべきことなのか、そのままにしておいていいものなのか、判断に困るところです。
乙女はホモセクシャルが大好きです。高畠華宵の描く禁断の同性愛的美少年から、竹宮恵子の代表作『風と木の詩』まで、ホモは乙女の永遠のテーマなのです。何故に乙女はホモセクシャル(特に少年愛)が好きなのでしょう。それは乙女の歪んだ性欲に原因があるのです。万人に性欲があるように、乙女にだってそれはあります。しかし、立派な乙女の場合、性欲はストレートな形(『ポップティーン』的)をもって放出されることは先ずありません。性への好奇心と嫌悪感、憧憬と不安、現実と観念の狭間で、乙女の性欲は迷宮を駆け巡ります。迷宮の中で醸造されたコンプレックスは、ホモセクシャルという乙女の肉体が自ら関与し得ないエロスに代償を求めます。完全なまでに耽美な「空想のホモセクシャル」。乙女は閉ざされた都合のよい虚構の世界に、リビドーのバランスを保つのです。多分にナルシシズムを伴う幼きヰタ・セクスアリスのネガ、それは現実のホモセクシャルの人達にとっては甚だ迷惑なものかもしれません。しかしそんなことはお構いなし、自分勝手は乙女の基本ですもの。
現実の恋愛は、時に僕達を辟易させます。リラの木の下で口づけをかわすことだけで恋が成立するならば、それはなんと素晴らしいことでしょう。しかし現実は上手くいきません。恋愛とは動物的本能から派生する諸刃の剣、いつしか僕らは現実を思い知らされるのです。それでも、僕達は観念の恋愛を忘れ去ることが出来ません。我々は奇形のエロスを持ち、安易な本能に反乱を起こします。街に溢れるひねりのないリビドー、チャゲ&飛鳥の歌のような恋愛なんて、想像力の欠片もない犬の恋愛です。素直で直接的なエロス程つまらないものはありません。がんじがらめに拘束されたバロック的エロスの捌《は》け口を求めて、悶々と暮らすことこそが乙女である必須条件なのです。
半透明な身体をした栗色の髪の少年が、瓜二つの少年とか細い指を絡ませあい、互いの吐息を確かめあう絵空事。おめめはキラキラ、周りはお花。遥かに肉体を逸脱した超肉体の結晶。逃避的少女趣味と罵られたって反省いたしません。これが乙女の実存主義なのですから。