巨大な書き割りのセットはロココ調、ゴージャスであればある程いかがわしく、電飾とパノラマの華麗なる舞台装置は、三文の恋の物語の為に存在する。演じる役者はこの世のものとは思えぬきらびやかな燕尾服とドレスに身を包み、スパンコールの数だけやけにチープで、悪趣味の極致。女性の演じる不自然で大袈裟な髭の紳士、絵本の中に出てきた薄っぺらなお姫様。ここでは全てが虚構、真実の欠片は一つもなく、捩じ曲がった乙女の欲望だけが、安っぽい箱庭の中でハッピーエンドの夢をみる。
フェリーニが好きで、古いMGM映画が好きで、テリー・ギリアム監督による『バロン』が好きで、パペットショーに心ときめくくせに、稲垣足穂がよく解らない。貴族とフランスとワルツに魅了されながらも、歴史の授業が大の苦手な僕は、宝塚歌劇に近親的な親しみを覚えます。もはや形式美では歌舞伎にひけをとらず、商業ミュージカルとしては劇団四季よりも根強いというのに、そのキッチュさ故に閉ざされ、演劇界からは無視され続ける異端のエンタテインメント。限りなくポップでキャッチーではあるけれど、そのポップさが増す程にうさん臭さのベクトルは増大するばかりの、宿命のイミテーション。一般人にはオタクの世界だと卑下されながらも、今尚多くのファンを離さない宝塚歌劇は、関西が唯一誇れる文化の殿堂といえるでしょう。
人工世界こそが、僕らの住むべき都です。白馬に乗った美しい王子様は、長いひだのついたドレスを纏《まと》った薄幸の貴方を、きっと迎えにきてくれるでしょう。リアリズムは人間を堕落させます。七色のイルミネイションに照らし出され、大きな羽根飾りを背負った姿こそが、僕達のあるべき姿なのです。乙女という存在は、常に戯画でなければなりません。少年からの戯画、そして女性からの戯画。美が現実の戯画であるように、キッチュこそが乙女の機能そのものなのです。乙女にダイヤモンドは似合いません。乙女の指で一等輝くのは、プラスチックの玩具の指輪。乙女は戯画であることで、現実のつまらない物理的法則から逃れ、観念の絶対世界に暮らすことが出来るのです。
宝塚歌劇は舞台はもとより、あらゆるアクセサリーがフィクションで構成された王国です。宝塚音楽学校の新入生が、学校の階段の端しか通ってはいけないという校則も、阪急電車に乗る時は最後尾の車両にしか乗車してはならないというルールも、全ては魔法の国のとりきめ。その不可思議な秩序こそが幻想の結晶となり、揺るぎなき架空の城を支えるのです。今また、静かなる宝塚のブームです。気が向けば足を運ぶ程度の浅い信仰しか持たない僕ではありますが、何時の日にかあの大劇場で自作のオペラを上演したいと、途方もないことを夢想する今日この頃です。