鉄の格子で四角く組まれた大きな窓より降り注ぐ木漏れ日が、地下一階のガランとした大食堂の、丸テーブルの上に掛けられた薄青色のチェック柄のビニールのテーブルクロスに反射するのを眺めながら、僕は今、オムレツを食べ終わったところです。ルネサンス様式の建築物として名高い中之島中央公会堂の下にある食堂部。どことなく社員食堂然としたこの食堂が、僕はいたく気にいっています。とびきり美味しい料理が出てくる訳でもないのですが、時代にとり残されたような博物館的風情が、洋食を食するのにいかにもふさわしく思え、中之島に来た時には必ず立ち寄ることにしているのです。
僕は洋食のような文筆家になりたいと思っています。西洋料理でありながらもフランス料理などとは区別される、料理の王道を外された不憫なジャンル。コロッケ、オムライス、ハヤシライスなどが代表的なメニュー。文明開化の頃、それは今の僕達が想像もつかない程、ハイカラなものだったのでしょう。しかし現代においては子供のメニュー、誰も有り難がってはくれません。
今でも洋食屋の看板を掲げているお店には、いくつかの共通点が見受けられます。店構えは質素でありながらもどことなくほのかな気品を漂わせていて、中に入ればテーブルの上にテーブルクロス。何故か名もない画家の風景画が掛けられているのも特徴の一つです。コックさんは皆きっちりとコックの衣装で働いています。それらは皆、古き良き洋食屋の伝統と矜持を彼らが守り続けていることのあらわれではないでしょうか。フランス料理がシンフォニーだとすれば、洋食は室内楽。ダシの効いたふわふわ卵にくるまれた、美味しくって泣きだしそうなオムライスや、本格カレーとは全く正反対のジャガイモがたっぷりと溶けた切ない味のカレーライス。B級とかキッチュではなく、志を高く掲げながら限定された宇宙の中で真摯《しんし》な味を探求する洋食屋さん。そんな洋食屋さんに出逢う度、僕は敬虔なクリスチャンである農夫が何のてらいもなく毎晩食事の前に長い祈りを捧げるのを見るような、宗教的な感慨さえ覚えるのです。
洋食屋さんには粋な老人のお客さんが似合います。ソフトを被りステッキをついた彼の背広は、型遅れですがオーダーメイドです。決して裕福な訳ではありませんが、彼は背広とはオーダーして作るものだと教えられてきたのです。
食後のミルクティも飲み終えました。さて、図書館を覗いて、お家に帰りましょうか。