暖かい。
この二、三日、大雪のふったあとのせいか春のように暖かい。
狐狸庵の庭にある池で鯉がその暖かい日の光をたのしんでいる。メダカはまだ姿をみせぬが、もうしばらくすると泳ぎはじめるだろう。
春さきになるとこの池にもメダカの子が生れる。よく注意しないとわからぬぐらいの小さな、糸屑のような子供である。
土のなかで眠っていたガマ蛙がこの池に戻ってくるのも四月だ。彼は池の主人のような顔をして眼だけを水面から出しているが、カンテンのような卵を生みつけるのが閉口である。
鳥もいろいろな鳥がくる。山鳩に似た鳥、ギャギャとなく関東尾長、春になると山鶯が間のぬけた声でホーホケキョとなく。
庭の一角にある雑木林のなかにタケノコが首を出すのもその頃だ。あっち、こっちでタケノコはその背丈の生長を競いあうように伸びていく。
庭の手入れはほとんどしないし、私は植えた花より野花のほうが好きだが、それでも毎年、桔梗《ききよう》だけは庭に少しずつ植える。花のなかで桔梗が一番、好きだ。
京都の大徳寺に出かけた時、あの境内のなかをぶらぶら歩いていると、桔梗寺という名札をぶらさげた寺が眼についた。
大仙院のような寺は観光客でごったがえしているが、この寺は訪れる人もないようである。
わたしはその桔梗寺という名に心ひかれてそっと入ってみた。
そしてこの寺の庭が他の寺のように、勿体ぶった枯山水などつくらず、ただ庭一面に桔梗をうえているのが非常に気にいった。
桔梗の花がむらさき色に庭一面に咲く。そして夏の夕暮、まだ光の全くさめぬ空に丸い月が出る。
そんな庭が前から見たかった。ひょっとすると子供の時から憬れていたのかもしれぬ。絵本のなかにそんな風景が描かれていたような記憶がする。
その寺を見て狐狸庵に戻ってから、庭に桔梗をうえてみたいと思ったのである。しかし庭一面に桔梗をうえるには、茂った樹木をとり除かねばならぬ。思い通りにはならないものだ。
詩仙堂を訪れた者は必ずあの鹿追いを我が家にも作りたいと考えるだろう。石川丈山は鹿が庭に入ってきて読書の妨げになるので鹿追いを作ったというが、しかしあの音は庭の閑寂をより一層ふかめるものだ。
庭の雑木林のなかに池から流れを引き、竹を切って鹿追いらしいものをつくってみた。
だが、竹がわるいのか、石がわるいのか、あの詩仙堂のようにカーンという冴えた鋭い音がひびかない。
ボコッ
にぶい、濁った音がするだけである。やはり素人のつくったものは駄目だ。
しかし鹿は追えぬが、庭に魚を狙いにくる野良猫はびっくりして逃げるので、私はこれを猫追いと呼ぶことにした。石川丈山の詩仙堂は鹿追い、狐狸庵は猫追い、やはり風流のちがいが端的にあらわれている。
カーン カーン
その音をききながら丈山は書をよんだ。
ボコッ ボコッ
その音を聞きながら狐狸庵は居眠りをする。春がちかい。