日本人は狸から二つのイメージを連想するらしい。一つは狸親爺という言葉にあらわされるように「狡い」「煮ても焼いても食えぬ」というイメージであり、今一つは、愛嬌があって「タンタン狸の××は」に唄われるようなこの動物のイメージである。
しかし実際、動物園などに行って狸を見ると、そういうイメージとはほど遠い。小さな臆病な動物が岩穴からじっとこちらを窺っている。絵に描かれているようにポンポンが大きいわけでもなく、××がブラブラするわけでもなく、髭がピンと生えているわけでもない。
狐狸庵という雅名を自分に与えた時から私は狸に関心を持ちはじめたが、童話のカチカチ山などで狸が不当に取扱われているのが甚だ残念であった。狸はそんなに悪い動物ではない。
数年前、新聞に出ていた記事で御記憶の方もあると思うが、鎌倉のあるお宅で、偶然裏山から狸が残飯を食べにきたので、その後庭に食べものをおいてやると、この狸、女房だったらしく、自分の亭主と子供をつれてやって来るようになった。そして食べものが庭に出てないと、家の戸をドンドン叩いて、飯はまだかと催促し近所の話題になっていたそうである。
私はこういうニュースは大好きなので、切り抜きをしておいたぐらいだが、飯が出てないと家の戸をドンドン叩くなど、眼にみえるようである。うちのシロちゃんなども食事が遅れると硝子戸をガリガリ引っかく。狸だって馴れれば同じなのだろう。
これも新聞に出ていたニュースだが、四国で鼠とりに猫を沢山飼っている田舎の家の厨にいつの間にか狸が住みついて、猫の真似をしていたのが捕えられたそうである。
記事が小さかったのでそれ以上のことは詳しくわかりかねたが、どれも狸らしい愛嬌のある話だ。
狸がズルイというのは彼が猟師にうたれると死んだ真似をしてから相手の油断をみすまして逃げるからで、これだけでズルイと言うのは可哀相だ。人間だって時と場合によっては死んだまねもする。バカづらを装うこともする。ハムレットを見たまえ。
しかし、私に興味のあるのは狸にポンポンをふくらませ、酒徳利をぶらさげさせた日本人の発想だ。あの狸のイメージはこの上なく愛嬌のある「オッさん」のイメージである。ああいうイメージを日本人が好んだというのは日本人のユーモア感覚のよさであり、また日本人のユーモア感覚の分析に役立つ筈である。あの「オッさん」のイメージは十返舎一九の弥次さんに通ずるものがある。一九の弥次さんは夜逃げもするし、女にも、手もだすし、江戸っ子だと威張るくせに小心で、決して憎めない。このような人物は私は大好きだが、それが何故、好きかというといわゆる儒教精神的なものなどこれっぽっちもないからである。狸を見て我々は孔子さま、孟子さま、武士道など全く感じない。いいじゃないか。
私はわが庵を狐狸庵と名づけたので、庭に狸のおきものをならべはじめた。
狸のおきものにもさまざまあって、よく小料理屋の玄関においてある貧乏徳利をぶらさげた狸はどこにもあるが、そのほか、寝そべっている狸、お酌をする娘狸、色々つくられている。
庭のアチコチにそれをおいていると家人が下品ですと腹をたてる。狸の味は女には絶対わからない。狸の味がわかれば私の大嫌いな女の陶酔的正義づらはなくなるのだが、これは当分、無理だろう。