このところ、空があまりに澄んできたせいか、書斎の窓から見える丹沢、大山の山並が急にこちらに迫ってきたような感じがする。
山襞や山頂が白いのは雪があそこに昨夜、音もなくしずかに降ったせいだろうか。机に向うまで、私はながい間、その山並をじっと見る癖がついた。
夕暮まで本を読んでいて、ふと、まぶたのあたりが、ほの紅いのを感じ、眼をあげると、薔薇色に空はかがやき、山々は蒼黒く浮びあがっている。その薔薇色が真紅にかわり、真紅がオレンジ色に移り、やがて闇のなかにすいこまれるまで、私は見ていて飽きたことがない。
夕暮になると、私はなぜかしらぬが、幼年時代や少年時代に知った人のことを急に思いだす。
もうそれ以来、会わないし、また今後、会うこともないそういう人たちが、今、何処で、どうして生きているだろうかと、ふと考えるのだ。
幼年時代、私は満州の大連という都会で育った。
ロシア人がつくったという大連は初夏になると街路樹のアカシヤの花が吹雪のように路に舞い、花の匂いがほのかに漂ってくる。秋になるとそのアカシヤの葉が黄ばんで歩道に散っていく。十一月から雪がふり、雪は凍り、凍ったその雪の上を満人の馬車のひづめの音がひびくのだ。
その頃、私の家には十五、六の満人のボーイさんがいた。ボーイさんというのは向うの呼び名で下男のことだった。
彼は私の家にくる前に、辻で曲芸師をやっていた少年だった。逆立ちをしたり、体を弓のように曲げて額にのせた棒に皿をのせたりしているのを小学校の帰り、私も一度見たことがあった。
その少年がどういう手づるで私の家のボーイさんになったのか、今でもわからない。
私の記憶にあるのは彼が私を——私は幼年時代、かなり愚鈍だった——非常に可愛がってくれたことである。
私がどのくらい愚鈍だったかは、雨の日に[#「雨の日に」に傍点]傘をさし雨合羽を着て、庭の花畠に一生懸命に如露で水をやっていることでもわかるだろう。
それを窓から見ていた兄がアッと叫んで母に知らせに行った。母は私に、
「雨の時は、花に水をかける必要はないでしょう」
と教え、始めて私は、ああ、そうかと思ったのである。
そんな愚鈍な私をこの十五歳の満人の少年は非常に可愛がってくれた。日本語のできぬ彼はカタコトの言葉とミブリとで私といつも遊んでくれたのである。
病気をして寝ていたことがあった。その時彼は兄のように私の看病をしてくれたが、ようやく熱の引いた時、退屈な私のために、昔、彼が街の辻でやっていた曲芸を——額にのせた棒に皿をのせ、その皿をまわす曲芸をやってくれたのだ。
その中国人の少年《ボーイ》と一年のちに別れて私は日本に帰った。
夕暮、茜色に丹沢や大山がそまる時、私はなぜかしらぬが、その少年のことを思いだす。思いだすと、まぶたに泪のにじむことがある。
アナトール・フランスの短篇に『聖母と軽業師』という作品があるが、その短篇を読まれた方には、私の気持がわかってくださるだろう。
あの少年は今、どこに生きているだろうか。