アナトール・フランスの『聖母と軽業師』のことに一寸、ふれたが、私は学生時代、この聖職者のような顔をして、皮肉っぽい眼つきをした仏蘭西作家にぞっこん惚れこみ、その作品を愛読したことがある。
アナトール・フランスはよくセーヌ河岸の古本の露店を歩き、そのなかから埃に埋もれた珍書や古書を発見したというが、私が若かりし頃、はじめてかの国に遊学した時、この巴里のセーヌ河岸の古本露店に飛んでいったのだが、もうその頃は、珍書も古書もなく、ガリマール社から出しているセリ・ノワール叢書の探偵小説や怪しげな恋愛小説がパラフィン紙に包んで並べられているだけで、多少ガッカリした記憶がある。
私には珍書や初版本、稀覯本を集める趣味は全くないが、それでも古本屋を歩きまわるのは嫌いではない。古本の持っている独特のカビくさい臭いもさして苦にならない。
珍書や稀覯本には縁が遠いが、それでも自分が探して見つからなかった本が、地方都市の古本屋で無造作に転がっているのを見つけた時は、
(あった)
まるで自分の受験番号を入試発表の紙から見つけた受験生のように体の震えるのを感じることがある。
数年前、必要あって切支丹関係の本を集めていたことがあったが、神田のT書店という小説家の資料収集を専門にしている店でさえ探せなかったものを、京都の古本屋で、全く偶然に見つけた時、しかもその値段があまりに安いのを裏表紙を見てわかった時、
(イ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ)
下品な笑いが顔に浮んだのを今でも記憶している。
古本を買ってそれを読む楽しさのなかにはその頁のところどころに、前の持主の感想が書きこんであったり、赤いラインが引いてあるのを見て、その人がどういう読み方をしているのか、推理できるところにある。
しかし経験上、赤線の引いてあるのが多い時は、前の読者がその本を本当は理解していないのだとすぐわかる。本の読み方を知らないのである。
時にはその本のなかから、古い葉書などが出てくることがある。
おそらく、前の持主が何げなく、シオリの代りに入れたにちがいないのだ。
そういう葉書を見ると、前の持主の生活や経歴が何となくわかるよぅな気がして、
(よう、先輩)
と一種のなつかしさをおぼえるものである。
こんな経験があった。
本郷の古本屋で、たまたま、マルセル・アルランという仏蘭西作家の本を手に入れ、まだ半分も頁の切っていない(仏蘭西の書物には頁を切っていないのが多い。近頃は大分、なくなったが)のを見て、途中で放棄したなと思いながら、読んでいると、その中から一枚の半紙が出てきた。
みると、欠席届と墨で書いてある。
「私、風邪のため、×月×日、欠席いたしました。右、お届け申しあげます」
つまり、そういう意味のことが、筆で書かれていて、最後に一高の校長の名が上に記載され、その下に当人の名がしたためられていた。
その当人の名を見ると、何と文芸評論家中村光夫氏の本名ではないか。若かりし頃、一高生だった中村光夫氏が欠席届を書いて、この原書のなかにうっかり、はさんだのだとわかった。可笑しかった。古本を買う楽しみにはこういう附録もついているのだ。