A君とB君がたちあがって喧嘩の真似をしはじめた。もちろん、これは悪意あってやったのではなくたんに花見客を驚かしてやろうという小児的な心情からだった。
「この野郎」
「なんだ。この野郎」
二人はつかみあいの形をとり、横眼でチラチラッと他の花見客を見ている。言葉だけはスサまじいが、手には力がこもっていない。
「やめろ」
と誰かが言った。
A君とB君はウソ喧嘩を相変らず続けている。
その時、A君の拳が偶然、B君の頬にあたった。
すると、B君もおかえしにポカッと撲った。二人の喧嘩はこの時、ウソ喧嘩から本ものになったのである。
はじめ私は二人がまだ喧嘩の真似をやり続けているのだと思った。しかしやがてそれが本当の喧嘩だと気がついたとき、びっくりし、とめに入った。だがもう二人は本気になっていた。事、既に遅かったのである。
私はあとになって、こういう始末を起した責任者の自分を恥じたが、しかし、この花見から一つの教訓をえた。それは次のようなものである。
「我々は怒るから手をあげるというより、手をあげたため怒りの感情が倍加することが多い」
この言葉は私のものではない。仏蘭西の思想家アランのものである。
A君とB君とは始め、真似ごとで手をあげていた。しかし手をあげ、つかみあいの恰好をするうちに喧嘩の感情がそこに移入されてきたのである。そしてそれは偶然、一方の手が頬にあたった切掛けから形をとったのだ。
行為がそれに伴う感情を倍加するということはこの花見の失敗でよくわかった。このことは我々の生活の上で重要な教訓となる。
たとえばどんな人間にもスランプの日がある。何をする気にもなれない。私などは毎日がスランプの日みたいなのだが、特にスランプのひどい日には思い切って夕方まで遊ぶことにしている。それもダラダラと遊ぶのではなく、徹底的に遊ぶのである。
そして夜になってから、思い切って原稿用紙をひろげる。ひろげて、とに角、何でもいい、書きはじめる。書きはじめている間はまだスランプの気分が残っているが、やがて没頭できるようになるのだ。
ともかくも原稿用紙をひろげたという行為から、スランプを脱出できるようになれるのはさきほどのアランの言葉の応用である。
私は仏蘭西語しか読めない人間だが、今まで洋書をひろげると始めの二頁ぐらいは、ひじょうに読みづらい。読みづらいのを我慢して十頁、十五頁と読んでいくと、次第にスピードがあがってくる。わからぬ単語などあっても内容はつかめるのである。これもアランの言葉のある応用かもしれない。
スケートを習いはじめた子供は、やがて自由に滑れるようになると、はじめ、なぜ、氷の上に立っただけで体がグラグラしたのか、わからないと言う。自転車の場合も同じで初日にあんなにできなかったことが一ヵ月後には本能的にうまくやれるものだ。あとから考えると、何故、自分はあんな簡単なことができなかったのかとふしぎなくらいだ。
人生を生きる上には、行為を先にすることによって自分の精神、心情をそれによって伴わせるほうが便利な時も多いものだ。ナチスはその手によって群集にある種の心理を起させたのである。人間の感情なんて弱くもあり、またその弱さをも応用できるものなのだ。