あれから歳移り、月かわり、慶応大学にもめでたく女子学生、専用便所もできたそうで、わが後輩たちも先輩のわれわれと同じ苦しみをあじしわうことはあるまい。
しかしだな。尿意を烈しく催した時に便所に行かれんということは、全く想像を絶した苦痛ですな。どんな大学者だって、偉いお方だってこの時ばかりは、どんな哲学、どんな宗教だって役にたたんのではあるまいか。カントをもちだそうが、ヘーゲルをもってこようが、はたまたコーラン、仏教聖典、新約聖書のことを考えようが、波のように迫りくる尿意のくるしさには何の役にもたたんのではあるまいか。
つまりすべての宗教、すべての思想もこの生理的現実すら克服できんという事実に、二十世紀の悲しさ、実存的悲哀というものがあるのではないだろうか。
わが深い研究によると尿意を烈しく催し、脂汗ながしてそれを我慢している時は、波のような起伏があってな、ウーン、出そうだ。洩りそうだ。それを必死で耐えておると、アナふしぎ、心頭を滅却すれば火もまた涼し、一時的に急に、この尿意が引き潮のように引いていくことがある。されど、これで安心してはならぬのであって、一分後、あるいは二分後に、ふたたび波は押しよせてくるのであるから、ここが肝心である。しかも次に押しよせたる波はさきほどよりももっと強力にして、この時は、われらもあるいは足をくみかえ、あるいは頭かきむしり、全力あげてこれに抵抗し、押しかえさねばならんのである。押しては引き、引いては押しよせる大坂城夏の陣のごとき血みどろの戦いがそのあと続くことも覚悟しなければならんのである。
何とふかい考察ではなかろうか。何とみごとな体験的観察ではなかろうか。諸君も今の個所を読み、「真理は万人に真理」という言葉をハタと膝うって思われたことであろう。
この人は今、アレと戦いつつあるのだな、とすぐわかるような表情にぶつかることがある。電車のなかでつり皮にぶらさがり、そばの友人が、
「おい、どうも今度の大洋は弱いなア。最下位になるとは思わなかったぜ」
「…………」
「なぜ黙ってるんだ。気分でもわるいのか」
「ウ、いや、ウ」
「大洋はいいピッチャーがいねえから弱いんだ」
「ウ。うん。太陽はまだ弱い。まだ夏じゃない。ウ、ウ」
「なに言っとるんだね。お前あ」
トンチンカンな返事ばかりして、歯をくいしばるようにして窓をみつめ、時々、体をふるわせている御仁があれば、これは必死でアレをこらえていると思わねばならん。