いつかも拙者は、自分の調査によると易者などというものは当らない。もし本当に自信がある人がいるならば拙者に名のりでてほしいと、こう書いたのだが、いっこうになんの音沙汰もない。やはり自信のある易者などはいないのだと思う。
だからといって誤解のないようにいっておくが、拙者はけっして易者の存在を否定しているのではない。易者はやはりなくては困るのである。
第一に、あれは庶民の身の上相談役、グチの聞き役だと私は思っている。外国には教会の神父さんがいて、それがみんなの身の上相談にものってやり、女房のグチの聞き役もしてくれる。胸にたまったものを「他人に聞いてもらう」だけで、われわれの心は慰められるもので——この社会にはグチの聞き役は必要なのである。
しかし、日本には手軽なグチの聞き役が最近なくなってしまった。昔は大家さんというのがいて、店子の夫婦に喧嘩があれば、それぞれのいい分を聞いたり、身の上相談にのってやったりしたものだが、いまのアパートじゃ、隣に夫婦の喧嘩があれば、早速聞き耳たてて、
「もっと、やれ、やれ。やらねえか」
心中、そう叫んでいる手合いばかりになってしまった。われわれの周囲を見まわしても、人生相談、グチの聞き役はすぐ見つかるわけでなく、そういうときには街に出て、裏路に灯をつけている易者に何となく意見を聞くしかない。そういう意味で、日本の易者は当る当らぬではなく、こっちの胸にたまったことや心配を「聞いてもらう」手軽な相手なのである。
第二に易者というのは、何ともいえん滑稽味のある存在で、一杯ひっかけたあと彼らがいかにも学ありげに述べたてることを神妙に聞くほどおもしろい遊びはない。第一にそんなに人の人生、運命を知りつくせる知恵があるなら、ご当人こそ大道易者などやらず、もうチト出世しそうなものなのに、己《おのれ》のことはまったく知らぬ顔のところが甚だオモろいな。