彼はある日、得意そうに自ら製作するところのこの「蜘蛛の巣城」の絵図面を私と三浦朱門とに見せてくれたが、それによればその門には「大手門」と書かれ、庭には「獅子岩」という岩があるごとくであった。私と三浦とは驚いて、この蜘蛛の巣城を見物すべく、蓼科まで赴いてみたが、大手門というのは丸太棒を二本たてた門ともいえぬ入口であり、獅子岩とよぶのは岩どころか汚ない山石のことであった。そして蓼科大王は夕方になると鳥打帽をかぶり、背をまげ、アンマさんのように杖をついて、当時まだ二、三軒しかなかった下の土産物屋にヒョコヒョコ酒を買いにいくのであった。それは大王というより、国を追われたリヤ王流浪の姿を私と三浦とにむしろ連想させた。
その頃から梅崎さんの健康は次第に蝕まれはじめていた。肝臓がおかされていたのである。医者の命令で酒は厳禁されていたにかかわらず、梅崎さんは本箱のうしろにウイスキーの瓶をかくし、夫人や家族の方たちに見つからぬようにそっと飲んでいたそうである。
体が衰弱していったにかかわらず、梅崎さんはその頃からまるで自分の死を予感したように作品にとりくみはじめた。晩年の二名作『狂い凧』と『幻化』とがそれである。特に『幻化』を書きはじめた時は、
「ぼくは君に小説の書き方を教えてあげますよ」
と嬉しそうに言っていた。
その頃、彼は毎晩のように仕事を終えては私の家に電話をくれたが、その内容はテレビで中継されるボクシングの賭であった。ボクシングをあまり知らぬ私は、酒をのめなくなったこの先輩を慰めるつもりでその賭に応じていたが、奇妙なことに、私の賭けたほうがたいてい負けるのである。
「あのネ、君の借金はもう千五百円ですよ」
梅崎さんは嬉しそうに声をはずませ、私はどうも妙だと首をひねっていたが、ある日、彼が三浦に洩らした一言でこのカラクリがばれてしまった。梅崎さんが賭を申込んでくるボクシングはみな再放送のものばかりであり、あらかじめ、彼はどちらが勝ったかを知っていたのである。その話を三浦から知らされて私は憤激したが、その日に梅崎さんは大量の吐血をして病院に運ばれていった。
かけつけた時は、もう彼は半ば意識がなかった。まだ文壇の友人も雑誌社の人もだれも来てはいなかった。私は三浦と手わけしてアチコチに電話をかけたが、やがてみんな集まった頃、容態は絶望的になってしまった。