それは消毒薬の匂いのする大学病院の廊下に夏の夕暮の陽が照りつけている午後だった。医者が頭をさげて病室を出た時も私にはまだ、この先輩が死んだと信じられなかった。彼の小説のことはもとより、彼とのさまざまな思い出が頭に次々と甦《よみがえ》ってくる。初めてこの先輩と会った時に街頭易者のところにつれていかれて、才能、未来を占わさせられたことまではっきり思いだされてくる。
安岡と三浦と廊下にションボリ腰かけていると、安岡が、
「いつか、俺たちも一人一人、こうなっていくんだなア」
と呟いた。私は私で、彼にボクシングの賭で負けた二千円をまだ払っていなかったことも考えていた。そしてやがて安岡の言うようにメイドに行くようになった時は、その二千円をもっていこうと思った。
梅崎さんが死んで、私は彼の卒業した九州|修猷館《しゆうゆうかん》高校の文芸部から一冊の会誌をもらったが、それには中学二年の時の梅崎さんの作文がのっている。『武丸の正助翁』という題だが、お世辞にもウマい作文とはいえぬ。この正助翁というのは親に孝行した人らしいが、二年生、梅崎春生はその墓に参って「今からきっと孝をつくし父母の心を安んじなければならぬと決心した」ところ、効験あらたかにも最近「叱言を受くることも減ずるようになった」という作文で、私はそれを読み、爆笑した。もしこの作文をもっと早く手に入れられたならば、どんなにあのイジワル先輩をからかうことができたかと、まことに残念でならなかったのである。