正月元旦から風邪をひいて寝こんでしまった。タチの悪い風邪で今日に至るまで、まだ本復しない。煎餅《せんべい》布団から首だけ出して、ハナばかり、しきりにかんでいると、飛んで火に入る夏の虫のたとえ通り、三浦朱門から電話が突然かかってきた。
「へえー。俺かて風邪ひいとるんや。まだ咳が出よんねん」
三浦はヨソ行きの人には標準語で話すが、我々友人には標準語と関西弁とのチャンポンでものを言う。彼は東京の生れだが、旧制の高知高校を卒業しているので、関西弁もその時、憶えたのであろう。
「そやけど、お前みたいに寝てへんワ。元旦から原稿、書いとるんや。俺、二月からアメリカ行くよってん、今のうち仕事しとるのや」
昨年、三浦は『箱庭』で文学賞をうけた。今年の彼はアレコレと忙しくなるであろう。
「お前、紙のいらへん便器、知っとるか」
突然、彼は妙なことを言う。
「紙のいらへん便器、買わへんか、水上勉さんも買《こ》うたで」
三浦の話によると、その紙のいらへん[#「いらへん」に傍点]便器は湯と熱風が吹出るようになっていて、用がすむと、便器の中から吹出した湯が尻を洗ってくれ、さらに洗った尻を熱風が乾かすという仕組みになっているのだそうだ。
「お前、買う気か」
と私がびっくりしてたずねると、三浦は、
「俺、買いたいねんけど、女房がイヤや言いよんねん」
しかし私の友人たちはそろいもそろってなぜ「シモ」の話がこうも好きなのであろう。シモの話になると眼の色をかがやかせて彼らが話すのを、私は長い歳月いつもその横できかされてきたものだ。
「お前は」とある日、吉行淳之介が非常にシンコクな顔をして私にたずねたことがある。
「便所に行って電車切符一枚ぐらいの小さな紙きれしかない時、これでどう尻を始末するか知っとるか。アーン、知っとるかね」
私がもちろん知らぬと言うと、吉行は一生懸命教えてくれたものだ。電車切符一枚ぐらいの小さな紙で始末をする方法を……