私ははね起きた。もうたまらなかったからである。
「三浦」と私は闇のなかで叫んだ。「変な声がするんだ。自殺したとか、なんとか、言うんだ」
すると、眠っていたはずの三浦が、パッと電気をつけた。顔が紙のように蒼白である。
「ほんまか」
「本当だとも」
「俺、見たんやでえ」
「何を見たんや」
三浦は怯《おび》えた声で話した。眠りについた彼は私の呻き声で眼をあけた。(私はウナされていたそうである)——と、部屋全体は真暗なのに二人の布団の間だけ、ほの白くなっていて、そこに誰かがうしろ向きに坐っている。灰色のセルの着物を着た男の背中なのだ。すぐ三浦はスタンドをひねったが、何も存在していなかった。
幻覚だなと三浦は思い、灯を消しふたたび眠りについた。だが、また眠りからさめて眼をひらくと、灰色のセルの着物を着た男の姿が、二人の布団のあいだにみえた。思わず布団に顔を埋めた時、私が叫んだのである。
断っておくが、堅物の三浦はこんな時決して嘘をつく男ではない。私のような男ならそういう時、相手をオドかすために俺も見たなぞと言いかねまいが、何しろ温泉マークに「何もせえへんから」と女房を誘って断られた男である。私は彼が決して嘘を言っているのではないと、その蒼白な顔とふるえ声とでわかった。
私たちはしばらく、じっとしていた。スタンドの灯が部屋をほの暗く照らしている。一体どうしていいのかわからない。三浦も私もただ布団に俯《うつぶ》せになって随分ながい間、じっと黙っていた。こんな異様なヘンてこな出来事には生れてはじめてぶつかったので、どう行動していいか、わからないのである。
「お前え……」彼は突然、言った。「お祈りせえや」
「そんなもん、効くかい」
突然、私の頭に始めて、逃げる[#「逃げる」に傍点]という考えが浮んだ。なぜこの名案が始めから我々二人に浮ばなかったのか。
「逃げよッ」
私はそう叫ぶと布団をとび出たが、驚いたことに腰がいうことをきかぬ。ヌケていたのである。三浦も腰がヌケていたのである。二人は中風の爺さまのように畳に四つ這いになり、四畳半のむこうにある出口に向って懸命に這い出ようとした。
這っている三浦の尻が寝まきから出ている。私も同じ格好だったにちがいない。三浦より遅れると、うしろから冷たい手でつかまれそうな気がして、私は夢中で三浦を追いぬいた。すると三浦が左手で私をうしろにやろう、やろうとするのである。彼も同じ思いだったにちがいない。
やっと外に出ると、私は思わず樹の根に吐いた。人間、異常な目にあうと嘔《は》き気を催すものらしい。