吉行はその頃、自分は今、傘はり浪人の心境だなアと言い、一緒に出かけたおでん屋でも、私が話しかけると苦しそうに笑い、黙っていると割箸で皿を叩きながら、
「ああ、ゼニコが降ってこんかなア。鼠《ねずみ》がチューと走るたびに、天井からゼニコがバラバラ降ってこんかなあ」
とひとり言をいっている。このひとり言をきいていると妙にこちらもワビしく暗い気持になり、心の底からネズミがチューと走るとその天井裏からゼニコがバラバラ降ってこんかいな、と思うくらいであった。
その頃のことである。ある日、彼は私にむかってお前はクリスチャンだから新宿の赤線、青線など知らんだろうなと言った。私は三浦朱門と同様、全くその方面には無知なのでうなずくと、彼はじゃあ、あのあたりをぐるりと見物させてやろうと言った。かねてから吉行が、その方面の通であることを小説からも知っていたので、早速彼のうしろからついていった。吉行はこちらが赤線で、あっちが青線なのだと説明してくれ、暗い道をフラフラと歩いた。両側の風呂場のようなタイル張りの家の中から女の子が厚化粧の顔をそっと出して、
「あら、淳ちゃん。寄ってよ」
などと気やすく呼びかける。私はすっかり感心して、
「君は本当に顔だなア」
と言うと、
「これでも長年、修業しておる」
と吉行はうなずき一軒の店の前に立ちどまった。
「この家は俺がついこの間、寄った店だ。お前ここで待っとれ。俺は女の子にちょっと挨拶してこよう」
それはいかにも馴れた格好だった。一人になると私は心細くなり、そっと中をのぞいていると一階にのぼる階段の上の方で突然、騒がしい物音と争う声がきこえてきた。
「ゲンくそ悪い。あんたなんか出ていってよ」
女の子の怒鳴る声にまじって、
「ああッ、無茶するな。いかん。それはいかんぞ、お前」
悲鳴をあげているのは確かに、吉行である。こっちは何もわからぬので、あれがこうした世界の挨拶の仕方かなと思っていると、突然、雪だるまがころげるように顔も肩も白くなった吉行が女の子に蹴とばされて階段からガラガラ、ズドーンと転げ落ちてきた。そし茫然としている私の前で、女の子は更に吉行に塩をパッパッとぶっかけては、
「出ていけッ、ゲンくそ悪い男」
と叫ぶ。吉行は髪も顔も婆さまのごとく塩で真白になり、
「ペッペッ、こりゃいかん。乱暴である。ペッペッ」
何のことか理解できぬ私は、とにかく、尻もちついた吉行を外につれだし、一体どうしたのだとたずねると、吉行はまだあたりかまわずペッペッと唾を吐き、
「ああ塩からい、これも修業の一つなのだ」
と口惜しそうに呟いていたが後になって、その理由を教えてくれた。吉行はその前々日、この家に行ったが、病みあがりのため遊ばずに戻った。それが縁起をかつぐ女たちの機嫌を損じ、ああなったのだという。通人になるには成程、大変な修業がいるものである。
三浦とちがって女子学生は大嫌いな吉行は、女子学生は偽善者だが、それにくらべ娼婦たちはいつか俺がゴミだめの横で死ぬような時がくると、俺の唇を筆で湿してくれるような気がするとも、いつもいっていた。