そこで今日は、この村松剛の前に大サギ師があらわれた話をしよう。
もう十年ほど前になるが、ある夏の日、私が昼寝をしていると、女中がお客さまですと起しにきた。着ながしの痩せた青年が玄関に立っていた。文芸評論家のY氏の紹介状をもっているので私は書斎に通した。
その男は非常な能弁家だった。こちらにはほとんど何も話させずにペラペラ、ベラペラ、文学論をしゃベり続けているのである。唖然として私はそのパクパク開閉する彼の口もとを見ていると、おや、前歯が三、四本ない。
「この歯ですか」と私の視線に気づいて彼はニヤリと笑い、「これは金歯が入れてあったのですが、売払いましてね。実は俺は親から勘当の身なのです。俺は会津の松平の三男です」
私はびっくりした。というのは私の父親は養子に行ったのだが、その実家は会津藩士で一族の中には会津若松城を死守するために戦った者もいたからである。いわば昔の殿様の若様が突然、来られたからで、番茶しか出していなかった私はあわてて、天丼《てんどん》を近所のそば屋から彼のためにとった。ちょうど祖母が来ており、これが昔風の女。恐縮して天丼をおすすめすると、パクパク若様は食うのである。
「俺は海軍兵学校から終戦後、東大の仏文に入ったんだが、放蕩がすぎて勘当されましてね。むかし馴染んだ芸者の実家で、いま厄介になっているんです」
「で、どこにもお勤めにならず?」と祖母がいたわしげにうかがうと、大きくうなずき、
「親類の者が映画会社の宣伝部に世話してくれたんですがね。一人の女優があまり無礼なことを言ったので、手打ちにするぞッと怒鳴りつけたのが問題になりましてねえ。やめましたよ。面倒臭えから」
そんな話を二時間ほどやってから懐手をしたまま引きあげた。
さあ、それからというものはこの青年、毎日やってくる。来ては「今度、あんたを箱根の松平の別荘につれていこう」とか、「近日、駿府《すんぷ》(静岡と言わず駿府などと言うところが彼のウマイところだった)に出かけてくる」と言ったり、あるいは私のヨレヨレの浴衣《ゆかた》を軽蔑したように見て、
「俺の着物を一枚、進呈したい。文士がそんな着物を着ちゃいかんですよ。もっとも俺の着物にはアオイの紋がついているが、いいですか」
などと呟いたりするのだった。私も仕事はあるし、毎日二時間も勉強時間を妨げられてはたまらぬので、ある日、たまりかねて近所に住んでいられる評論家の山本健吉氏の家につれていった。山本氏は加賀藩の家老、横山家の子孫だから話があうかもしれぬと思ったのである。山本氏が、
「それでは舞いなどもやられますか」
とたずねると、彼はうなずき、
「舞いは仏蘭西語と共に子供の時からやりましたよ」
などと平然と答えるのだった。
私はとにかく、彼の連続的訪問とおしゃべりから逃げるため、村松に紹介状を書いた。村松には悪いが、半分、引きうけてもらおうと思ったのである。