阿川の運転は人の噂とはちがって、うまかった。ビューッと疾風のように走り、ギイーッと嫌な音をたてて急停車するどころか、安全な速度で慎重そのものであり、私は思わず、
「本当はうまいんだな」
そう賞讃したくらいである。
冬の山は人影少なく、ドライブウエーにも車の数は少ない。私は阿川のおかげで思いがけなく快適なドライブを楽しめたことを感謝し、
「有難うよ」
マツタケを奪られた恨みも忘れて彼に礼を言った。その私の顔を阿川は黄金仮面のように眼を細めてじっと眺めると、
「どういたしまして」
いつもとはガラリと違う声をだすのである。
冬の湖をぐるりとまわり、新しくできたという箱根ターンパイクをまわって帰ることにした。こちらは先程の道よりももっと寂寥《せきりよう》として通る車さえない。
「君は人の噂とはちがうね」
と私は言った。
「どうして」
「人の噂だと、君の運転は神風運転だというが、実際、こう乗ってみると、なめらかだ。僕はひとつも、こわくないよ」
「そうかね」
「僕は東京に戻ったら、君の運転についての誤解を弁じたいぐらいだ」
「そうかね」
そうかね、そうかねと返事をしながら彼は少しずつアクセルに力をかけていたのである。私は車のスピードが刻一刻と増していくのを感じた。
「何だか、早くなったようだが」
「そうかね」
「そのくらいで、もうスピードはあげぬほうが、良いと思うが……」
「そうかね」
眼の前の道、両側の林、標識が矢のように飛びはじめた。下り坂がアッという間に眼の前に迫ると、たちまち上り坂となり、息つく間もなく頂上が迫る。
「君、何をするのだ。やめたまえ」
「そうかね」
「冗談はよしなさい。馬鹿はやめろ」
「そうかね」
私は額から汗が出はじめた。私はこれでも自分の家に女房一匹、金魚五匹、犬二匹、息子一匹、メダカ二十匹——合計二十九匹の生命を養う身である。もし私がこの阿川の目茶苦茶運転のため生命を失うとすれば、これら二十九の生命は明日からでも飢えるであろう。