私は当時、独身で父の家にいたが、そこのお手伝いさんが私に輪をかけた映画キチガイで二人して日曜日、成城の俳優宅を見物してまわり、高峰秀子さんの家の牛乳瓶を失敬した経験がある。その彼女は私に有馬さんのサインを必ず必ずもらってきて下さいよッ、とたのみ、私は、自分用のと色紙を二枚もって迎えの車に乗った。同乗した新聞社の人に「有馬さん、忙しいでしょう」とたずねると「かなり忙しいですね」という返事であった。私は更に、
「あの人は恋人がいるのですか」
「さあ、よく知らんですが、いないでしょう」
「しかし恋人がいないというのはおかしい」
「そりゃア、いるかもしれませんが」と新聞社の人は浮かぬ声で答えた。「僕はあまり関心がないんです」
「関心がない? じゃア、あんたはああいうタイプの顔は嫌いなんですか」
「好きも嫌いも有馬さんの顔には興味が特にないですよ」
私はこの新聞社の人はよほどの堅物か石部金吉だと思い黙りこんでしまった。なにしろ、当時売出しの有馬稲子に今から会うというのに、その顔に全く関心も興味もないという心理が私にはよくわからなかったからである。
対談をする中国料理屋につくと、この人は、
「有馬さん、もう来てられるそうですよ」
と私に言った。胸をときめかしながら私は勢いよく個室の扉をあけた。長い顔の男の人が腰かけていた。その長い顔の人はたちあがり、
「やア、僕が有馬頼義です」
私のこのソソッかしさは、たちまち友人たちに拡がり安岡章太郎は早速、随筆の枕にしたが、しかしその安岡だってまだ芥川賞をもらわぬころ、女優と対談があるのだと我々を羨ましがらせて大威張りで出かけたが、対談場所についてみると、そこに飯田蝶子さんがチョコンと坐っていたという経験の持主だ。
なぜ私は女優や俳優に疼《うず》くような好奇心を持つのか。その理由は沢山あるが一つには、この人たちの素顔がみたいという欲望である。
この人たちはスクリーンの上で本当の自分ではない別の姿を演ずる。それは純情だったり、可憐だったり、人格高尚だったり、強いタフガイだったり、それぞれによってさまざまだろうが、そうした「作りあげられた」イメージをまるで本当の自分であるかのように装って生きている方たちだ。吉永小百合さんは、可愛くて質素で頭のいい娘をスクリーンでもファンの前でも演じて当分生きていかねばならぬだろうし、野川由美子君は不良っぽくヴァンプな仮面をファンや新聞社の人の見ている時は決してはずしてはならぬだろう。だがそれらは要するに仮面であって素顔ではない。あるいは仮面がもう本当の素顔になりかかっているかもしれぬ。
要するにこの人たちは夜、一人で布団にはいる時——もう誰も見ていないとわかった時、どんな顔をするのか。「ああ、ああ、今日も一日おわりました。くたびれたなア」ときっと溜息をつくにちがいない。そう思うと、私は女優や俳優に好奇心がたまらなく起きるのである。
私が山本富士子さんと会った時も、この好奇心が多分に疼いていた。私の考えでは山本富士子という名からして「清く、正しく、美しく」みたいであり、正月元旦という感じであり、ショーウインドーの洋服でいえば見本というようであり、こういう名前をつけた以上、この人は清く正しく美しく生きることをファンから要求され、きっと一人で布団にはいった時、
「アーくたびれたわ」と溜息をつく第一人者ではないかと、かねがね想像していたからである。