土方歳三が防具をつけて道場の真中へ出ると、七里研之助はまだ支度《したく》をしない。
ばかりか、道場の正面で稽古着のままあぐらを掻き、あごをなでている。
「薬屋、支度ができたらしいな」
と七里は大声でいった。
「へい」
歳三は、聞きとれぬほどの低声《こごえ》で、
「御用意ねがいます」
「できている」
七里は、道場のすみで面、籠手《こて》をつけている五、六人の門人のほうを|あご《ヽヽ》でしゃくってみせた。
「まず、この連中とやってみな。遠慮はいらねえ、みな、当道場では、目録、取立免状《とりたてめんじよう》といった剣位だ」
七里は、すでにこの薬屋がただ者でないことを見ぬいているらしい。
「ご審判は?」
と歳三が問うと、
「審判か」
薄く笑って、
「当道場の他流試合に審判はない。申し入れた者が、|立ち《ヽヽ》切り《ヽヽ》でやる。ね《ヽ》をあげたほうが負け、というのが、わが八王子の甲源一刀流の定法《じようほう》だ」
だっ、と一人が飛びかかった。
歳三はとびさがって胴を撃った。が、勝負《かちまけ》をとってくれる審判がいないから、男は、胴を撃たれたまま、面へ面へと来る。
(これァ、乱暴だ)
はずしては胴を撃ち、飛びこんでは起籠手《おこりごて》を撃ち、摺《す》りあげては面を撃つなど、歳三の竹刀さばきは自分でもおどろくほど巧緻《こうち》をきわめたが、相手は歳三を疲れさせるだけが目的だから、撃たれても撃たれてもとびこんでくる。
やがて、さっと退く。
すかさず、新手《あらて》が入れかわって撃ちこんでくる、という寸法だった。
きりがない。
(野郎、たたっ殺す気だな)
歳三はそう思ったとたん、三人目で竹刀をとりなおした。これには仕様《しざま》がある。
三人目が面へ撃ちこんできたとき、歳三は相手の切尖《きつさき》を裏から払った。瞬間、くるりと体をかわして左半身から力まかせに相手の右胴のすきまをぶったたいた。
腋下《わきした》だから、革胴の防ぎがない。
相手はなま|あば《ヽヽ》ら《ヽ》をへしまがるほどにたたかれ、ぐわっと跳ねあがると、そのまま板敷の上に体をたたきつけて気絶した。
(来やがれ)
こうなると、度胸のすわる男だった。
つぎの男には、出籠手《でごて》をたんと撃って竹刀を落し、突いて突いてつきまくってやると、
「参った」
と、道場のすみにすわりこみ、自分で面をぬいだ。刺子《さしこ》のえりにまで血がにじんでいる。
が、歳三も疲れた。
五人目の男には、手足の関節がねばって機敏なわざが出来ず、逆にしたたかに撃ちこまれた。
歳三は、受けの一方だった。相手の竹刀は容赦なく、歳三の肩、腕のつけ根、肘ひじ、など露《あら》わな部分にぴしぴしと食いこみ、ときには息がとまった。
(やられるか)
眼が、くらみそうになった。竹刀が鉄棒のように重くなっている。
と、夢中で竹刀をひるがえし、上段から相手の|すね《ヽヽ》をはらった。
六車宗伯を斬ったときの手である。相手は撃たれまいと、さがりながら足をあげる。
さらに撃つ。
また、あげる。
相手は、振り落ちる歳三の竹刀の上で、足をあげては退き、あげては退いて、まるで踊っているようなすがたになった。むざんなほどに、体《たい》がくずれてゆく。
前章にものべたが、この|すね《ヽヽ》撃ちは、剣術では邪道とされて、諸流にはない。むろん、この道場の甲源一刀流にもなければ、近藤一門の天然理心流にもない。
ただ、柳剛流にのみある。
武州蕨で興ったいわば様子かまわずの百姓剣術で、蕨のひと岡田総右衛門|奇良《まさよし》という人物が創始した。
柳剛流については、咄《はなし》がある。
このころ、尾張大納言が催した大《おお》試合《よせ》のとき、当時脇坂侯の指南役をしていた柳剛流の某という者がこの|すね《ヽヽ》斬りでほとんどの剣士を倒した。
立ちあう者は、つい足に念をとられて構えを崩され、思うところに撃ちこまれた。最後に立ったのは、千葉の小天狗で知られた周作の次男千葉栄次郎である。
立ちあがるや、
——待った。
と手をあげて道場の真中にすわりこみ、しばらく竹刀を抱いたまま思案していたが、やがて立ちあうと、乱離骨灰《らりこつばい》に柳剛流が打ちのめされた。
栄次郎が考えた防ぎの工夫というのは、|すね《ヽヽ》を撃ってくる敵の太刀に対し、股《もも》を前へ出してはずさず、わが足のキビスでわが尻を蹴るような仕方ではずしてゆけば念も残らず、防ぎも神速になる、というもので、これが千葉の北辰一刀流の新しい秘伝になった。
が、この場の歳三の相手は、武州八王子の剣客だから、江戸の名流がすでに確立している防ぎ手などは知らない。さんざんに撃たれた。
が、これを見ていて、
(はたしてそうだ。——)
と立ちあがったのは、七里研之助である。
(この男が、六車を斬ったな)
歳三の竹刀の振《ふる》いざまをみていると、府中猿渡屋敷の裏で討たれた六車宗伯の死体の傷あとと一致するのである。
(あの傷あとは、柳剛流……に似ていたが、やや否《ひ》なるところがあった。おそらく剣に雑多の流儀が入っている男だろう)
それが、この薬屋とみた。
「勝負、それまで」
と七里は手をあげ、すでに疲労しきっている歳三の様子をじっとみながら、
「薬屋、奥で茶でものんでゆけ」
といった。
歳三は道場わきの一室に案内されたが、ふと気づくと、あたりが薄暗くなっている。
が、茶も運ばれず、行燈に灯も入れてくれない。
(奇態だ)
と思った瞬間、この軽捷《けいしよう》な男は、窓から外へ飛びおりていた。
(はて)
あたりを見まわした。
どうやら道場の裏になっているらしく、歳三が足の裏に踏んだのは畑の|やわ《ヽヽ》土だった。
すぐ眼の前に井戸があり、そのむこうに甲州の山々が西の空に暮れはじめている。
小仏峠の上に、三日月がかかっていた。
歳三は勝手のわからぬまま、軒下を西へまわってみて、あっ、と足をとめた。そこに小さなクグリ戸があり、その板塀のむこうに道場主比留間半造の屋敷の棟が見え、白壁を背景に黒松がのぞいている。
歳三が不意に足をとめたのは、その巨大な黒松をみたからではない。その松の大枝の下のクグリ戸がカラリと開き、女が出てきたからだ。
|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》である。
八王子専修坊の娘で、歳三とは、一、二度男女の縁があった。この比留間半造にかたづいてきてからの|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》を見るのは、いまがはじめてである。
武家の妻女らしくなっていた。
それに、歳三が内心おどろいたのは、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》の落ちつきぶりであった。
歳三をじっと見ていたが、なにもいわずホッと手燭の灯を消し、ひたひたと近づいて、
「あなたさまのことについては、なにもかも当道場に知れております」
と低声でいった。
「………?」
「師範代七里研之助どのが、六車宗伯どのの仇《あだ》を討つと申して騒いでいる様子でございます。六車どののこと、あなたさまに覚えがあるのでございますか」
「………」
「いずれにせよ」
と、女はいった。
「早くここからお逃げになることでございます。その井戸端のところを真っすぐに突っきってとびおりれば、低いガケになっていて、あとは一面の桑畑でございます」
「そなた、たしか、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》と申したな」
「|せん《ヽヽ》でございます」
滑稽なことに、この女は、歳三が薬売り当時に|よぼ《ヽヽ》う《ヽ》て獲《え》た女だけに、体の記憶はあるが、名まではうろ覚えなのである。
(容貌《かお》をみたい)
とおもったが、すでに暮れはてていてその想いは達せられそうにない。
匂い袋の香《こう》だけは、におう。その匂いが、かつてこの女の寝間を襲ったころの記憶を歳三によみがえらせた。
(あれァ、寒いころだった)
専修坊の庭がありありと眼にうかび、女はその離れにいた。夜這いは武州千年の田園の風《ふう》だから、歳三は馴れている。女は熟睡していたが、いざとなって歳三に抗《あらが》わなかった。前夜来から寺に泊まりこんでいる、この若者が、今夜忍ぶことは娘のカンで察していたのだろう。
「おい」
と、歳三は、たまらなくなった。
「いけませぬ」
と、比留間半造の内儀は、いった。この武州多摩地方の女は、娘のあいだはさまざまなことがあっても、|ぬし《ヽヽ》をもって家に入ってしまえば、どの土地の女よりも固いといわれている。
歳三もすぐ苦笑して、
「わるかった」
と素直にあやまった。
が、そう素直に出られると、女にすればかえって始末がわるかった。それを警戒していた緊張感が一時にゆるんだのか、
「土方さま」
と、歳三の手に触れた。握れ、というのだろう。が、歳三の眼はにわかにすわった。
「なぜわしの姓を知っている」
「土方歳三どのでありましょう。ちゃんと存じております」
「なぜ知っている」
「なぜとは?」
「なぜ知っている、というのです」
性分《しようぶん》で、そんなことが、気になる。
「七里研之助どのからききました。あなたさまは薬売りではありませぬ。江戸小石川柳町の近藤道場の師範代土方歳三どのでありましょう」
「———?」
と眉をひそめたのは、背後で物音をきいたからである。と同時に歳三は、|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》のそばを離れた。
影のように走って道場裏のガケをとびおりた。
|おせ《ヽヽ》ん《ヽ》が歳三の機敏さに驚いたときは、すでに当人は、小仏峠の上の月を怖れつつ、桑畑の中を歩いていた。
歳三は、江戸道場で、数日すごした。
歳三と入れかわって、近藤勇が多摩方面の出稽古に行ったが、ほどなく戻ってきた。
農繁期で、思ったより人があつまらなかったという。
「そいつは、ご苦労だった」
と、歳三がいった。
「ほかに何か異変がなかったかね」
「とは?」
近藤は、この男特有のにぶい表情で、
「そうだ、忘れていた。日野宿の佐藤屋敷に寄ったら、お前の兄《あに》さんが来ていた。いや喜六さんのほうじゃない、石翠《せきすい》さんだが、ちかごろ歳《とし》の野郎ちっとも家に寄りつかねえな、どうしやがったんだろう、なんて云っていた」
石翠は、歳三の長兄である。
うまれついて目が見えなかったから、跡目を次弟にゆずり、庭の見える八畳の間を一つもらって、道楽に三味《しやみ》をひいたり、義太夫を村の連中に教えたりして暮らしている。これがなかなか洒脱《しやだつ》で、盲人とも思えぬほどに世間のことに明るい。
歳三はカンで、この石翠が、なにか近藤にいったと見て、
「あの兄のことだ、云ったのはただそれだけじゃなかろう」
「ふむ……」
近藤はしばらく考えている風情だったが、やがて、
「歳さん、お前、人を殺したな」
歳三は、だまっている。
「六社明神の六車斬りは、歳の仕業《しわざ》じゃねえか、と石翠さんがこっそりいっていた。ちかごろ、八王子の甲源一刀流の連中がしきりと石田村に入りこんできては屋敷うちを垣間《かいま》のぞくそうだ。石翠さんは、お前をさがしているのだろうという。わしは、まさか、といっておいたが」
「いや、私の仕業だよ」
「………」
こんどは近藤がだまる番だった。この上石原うまれの|あご《ヽヽ》の大きな男は、勝太といったむかしから、驚くと表情《いろ》には出さず、尻を掻くくせがあった。
「本当か」
「水臭いようだが、いままでだまっていた」
「なぜだ」
「道場に迷惑をかけたくねえからさ。これは聞かなかったことにしておいてくれ。あの始末は、おれがつける」
「よかろう」
武州、上州は、流儀のあいだでの喧嘩沙汰が絶えない。近藤は、馴れている。
よかろう、といったが、そのあと、近藤は沖田総司を呼んで、事のあらましを告げ、
——歳三の野郎は気負っているようだが、なにしろ相手は多勢だ。歳に万一のことがあれば流儀の名にかかわる。
——いいですとも。あの方面へ行って探索しておけ、ということでしょう。
沖田はこの男一流の陽気な笑顔で何度もうなずき、その日のうちに道場から姿を消した。
数日たって、江戸へもどってきた。近藤に何事か報告したあと、よほどほうぼうを駈けまわってきたのか、道場裏の部屋に引きこもると、さっさと布団を敷いて寝てしまった。
翌朝、井戸端で歳三をみて、ぺこりと頭をさげ、おはようございます、というと、いきなり小声で、
「土方さんも物好きなお人だ」
とからかった。
「なぜだ」
「妙な芸人と知りあいだからさァ」
「なんだ、その芸人とは」
「わいわい天王《てんのう》のことですよ」
沖田のいうことがわからない。
「なんだ、わいわい天王とは」
「お面かぶり。——」
沖田は、可愛い唇でにこにこ笑っている。
「お面かぶりとは、九品仏《くほんぶつ》のか」
「そうじゃありませんよ。にぶいな。土方さんは俊敏だけど、ときどき人変りしたようににぶいところがあってこまる」
沖田は、洗面をすまして、さっさと道場に入ってしまった。
それから数日たって、多摩方面の出稽古が歳三の番になった。
多摩出張の日は、いつもまだ陽のあがらぬ暗がりに出る。
この日は、どの師範代の番のときでも、道場の門を八の字にひらき、門わきに定紋を打った高張提灯をかかげ、近藤が紋服を着て式台《しきだい》まで送りだす慣例になっていた。
歳三が草鞋《わらじ》をむすんでいると、近藤がその背越しに、
「総司も同行するように申しつけてある。あいつ、支度が遅れているようだから、すこし待ってやってくれ」
「総司が、なぜ」
はっと歳三が思いあたって不機嫌そうにふりむくと、近藤がめずらしく気弱そうな愛想《あいそ》笑いをうかべて、
「道中の話し相手だ」
「話し相手など、要らん。第一、総司のような多弁なやつと一緒に道中をさせられると、疲れてかなわぬ」
「来た」
総司は道場のほうからまわってきたらしく、すでに手甲《てつこう》、脚絆《きやはん》で四肢をかため、腰に馬乗り提灯を差し、袴《はかま》ははかず、尻をからげている。それが、この二十《はたち》の若者にはひどく小意気にみえた。
内藤新宿を出て甲州街道に入ったあたりで沖田総司が、
「こんどの出張では、多摩のどこかの村できっと、やつらに会いますぜ」
「やつら、とはなんだ」
「こまったな、土方さんの素っとぼけには」
沖田は、この男の好みの大山詣《おおやままい》りの笠を子供っぽくかしげながら、
「七里研之助など八王子の連中ですよ」
と、ずばりいった。
「じつは、こうです」
沖田は、探索の結果をうちあけた。それによると、八王子衆は、わいわい天王に身をやつして甲州街道筋に出没しているという。
これらは猿田彦《さるだひこ》の面をかぶっている。
安政の大地震このかた、世が攘夷論《じよういろん》さわぎで物情騒然となってくるにつれて、関東一円にかけ、この徒輩の横行がめだっている。つまり、牛頭天王《ごずてんのう》に祈願をこめたと称する家内安全無病息災の神符《おふだ》を家ごとに売ってあるく乞食神主のことだ。
黒紋付の羽織に袴をはき、粗末な両刀を帯びて、
「わいわい天王さわぐがお好き」
などとうたいながら町々を歩く。世情が不安だから、こんな神符でも買う者が多い。
「ところがね」
沖田がいった。
「土方さんの石田村にはあの小さな村に、三日にあげず二、三人ひと群れに組んでやってくるそうですよ。それが、きまって八王子から来るそうだ」
その日は、いつものことで、日野宿の佐藤屋敷に泊まった。沖田と一緒に夕飯を食っていると、庭先でかさこそと足音がする。
「総司」
と、歳三は目くばせした。
沖田は箸を捨てるなり、飛びあがって障子をぱっと明けた。
縁側に、大男が立っている。
猿田彦の大きな面をつけ、じっとこちらを見て、動かない。