どこまでも、あぜ道がつづく。
歩きにくい。
土方歳三と沖田総司は、這うようにして敵のいる分倍橋に近づいた。
空は海のように晴れた星月夜なのだが、それでも雲が二きれ三きれあって、それがときどき、月を隠す。
そのつど、下界の武州平野は闇になる。
闇になるたびに、歳三と沖田は、申しあわせたように田へころがり落ちた。足腰も胸も泥だらけになった。
「ひでえ」
沖田は泣きべそをかいた。
「まるで泥亀だ。これでにゅっとあらわれたら、先様《さきさま》のほうがびっくりなさるだろう。ねえ、土方さん」
「だまってろ」
「無茶だよ、土方さんの軍略は。さっき賞《ほ》めて損しちゃった。講釈にはこういう軍談はなかったなあ。これは楠正成を始祖とする楠流ですかい? それとも、武田信玄好みの甲州流ですかい」
「土方流だ」
「よかァねえよ、泥亀流だよ」
沖田総司は奥州白河藩の浪人となっているが、亡父は江戸詰めの御徒士《おかち》だったから、沖田はうまれついての江戸っ子なのである。歳三のような武州の在家《ざいけ》育ちとちがって、よく舌がまわる。
——歳三と沖田がいま這い進んでいるのは今日《こんにち》でいえば分梅《ぶばい》町三丁目のまんなかぐらいだろう。
まだ分倍橋まで、三、四丁はある。
急に足もとの土の感触がかわった。
(………?)
ふと、桑畑になっている。歩きいい。やがて月光の下に分倍橋のたもとの欅の巨樹がみえてきたとき、歳三は、
「総司、そこが河原だ、この辺で別れよう」
といった。
沖田はここから迂回して川上へまわる。歳三は川下から接近する。敵の集団を挟《はさ》み撃ちするのである。二人が河床を這ってうまく橋の下で落ちあったとき、白刃をつらね、一気に土手へ駈けあがって斬りこむ、という寸法だった。
「いいな」
「うん」
沖田は、ぼんやりしている。
むりもなかった。沖田は、いかに道場剣術の俊才とはいえ、白刃の下をくぐるのは、いまがはじめてなのである。
「こわいのか」
「まあね。私は土方さんのように、いっぺん斬《や》った人間じゃないですからね。しかし考えもおよばなかったなあ、私の一生で人を殺すような羽目になろうとは。いったい、どうすればいいんです」
「やってみれァ、わかる。これだけは、口ではわからねえ。とにかく、斬《や》られねえようにするより、斬《や》る、ってことだ。一にも先《せん》、二にも先、三にも先をとる」
「土方さん」
と、沖田は妙な声でいった。
「なんだか変だよ。お尻の菊座のあたりがむずむずしてきちゃった。変にそこだけがふるえるような痒《かゆ》いような……」
「こまった坊やだな」
「失礼ですが、そこの桑畑で済ませてきますから、待っててください」
「早くしろ」
といったが、歳三も下腹のあたりが怪しくなってきた。
(いまいましいが、沖田に誘われたらしい)
やっておくことだ、と思って桑の老木のそばにしゃがむと、おどろくほどそばで、沖田もしゃがんでいる。
「土方さんもですか」
「ふむ」
「初心の泥棒なんざ、侵入《はい》る前につい下っ腹に慄えがきて洩らしちまうと聞きましたが、ほんとうですね」
「だまってろ」
たがいに、なまなましいにおいを嗅《か》ぎあっていると、なんとなく慄えが去り、度胸がすわってきた。
(さて。……)
身仕舞をし、念のため刀の目釘をしらべた。
「総司、もういいだろう」
「いいですとも」
底ぬけに明るい声にもどっている。
歳三は、沖田とわかれて、河原へおりた。
河床はしらじらとした砂地で、真中に一すじ溝のような川が流れている。橋の下まで、ほぼ一丁。
一方、沖田は、桑畑のなかをかがみ腰で突っ走った。大きく迂回して、川上へまわるためである。
風が、出はじめている。
歳三は、月が雲間に入るたびに走り、やっと橋の下の闇に駈けこんだ。
頭上に橋板がある。
みしみしと足音がするのは、比留間半造か七里研之助だろう。
月は、ここまでは射しこまない。
歳三は、橋脚の一本を抱くようにしてすわった。
土手にも路上にも人がいるらしく、あちこちから低い話し声がきこえてくる。
(不用意なやつらだ)
と思ったが、敵は敵で、声を出しあっては恐怖をまぎらわしているのだろう。
(これァ、伊香保《いかほ》以来の大喧嘩になるな)
そういう事件が、上州にあった。
千葉周作が諸国遊歴時代、上州に足をとどめて門弟をとりたてた。文政三年四月、周作二十七歳のときである。
上州は武州とおなじく好剣の国だから、村々から有名無名の剣客があらそって弟子入りし、滞在十日で、百数十人に達した。
周作は、まだ若い。
老熟後の周作ならそういうことはなかったろうが、当時|衒気《げんき》があったのだろう。自分の創始した北辰一刀流の威風をみせるため、その弟子入りした上州剣客百数十人の名を刻んで大額をつくりあげ、これを近在の伊香保明神の社頭にかかげようとした。
おどろいたのは、上州|馬庭《まにわ》の土着の剣客である、真庭十郎左衛門である。これは念流の宗家で、十郎左衛門は十八代目。
上州の剣壇は、永年、この真庭門でおさえてきたが、真庭としては、その門弟のほとんどを周作にとられたうえ、名を刻んで社頭で公表されてはかなわない。
その納額を阻止するため真庭十郎左衛門は国中の門弟三百余人をあつめ、伊香保の旅館十一軒を借りきって千葉方の百数十人と対峙し、さらに後詰《ごづ》めとして土地の博徒千余人を地蔵河原に集結させた。
まるで合戦である。
いまにも千葉方の旅館に押しよせそうな気勢だったが、周作はそこは江戸人で、田舎剣客とあらそっても後々利のないことを考え、単身上州を脱出した。
が、歳三は、江戸人ではない。
相手もそうだ。
甲源一刀流と天然理心流という田舎剣客の争いだから、互いに血へどを吐いて斃れるまでやる気でいる。
(おう。……)
歳三が気づくと、沖田が足もとまで這い寄っている。
——私です。
沖田は歳三に抱きつくなり、耳もとで、
——そこに二人います。
と、土手のかげを指さした。
「よかろう。あれを血祭りにしたあと、おれは川をとび越えてあっちの土手から這いあがる。いいか」
「ようがす」
沖田と歳三は、橋の下の闇を離れ、二人の左右にまわった。
「おい」
と声をかけた。二人それぞれに振りむかせてから、沖田は、
「沖田総司、参る」
あざやかに胴を払って斃した。水ぎわだった腕である。
「土方歳三、参る」
歳三は、踏みこんで左袈裟《ひだりげさ》に斬り、トントンととびさがるなり、川を一足でとび越え、向う土手の草をつかみ、大またに這いあがった。その身ごなし、まるで喧嘩をするために地上に生まれてきたような男である。
路上では騒いでいる。
奇襲は成功した。相手は、歳三らが意外なところから這いあがってきたのに狼狽したばかりか、二手にわかれているために、どれほどの人数が来たかと思ったらしい。
歳三は、路上に這いあがった。
眼の前に欅《けやき》の巨樹がある。そこが橋の北詰めで、権爺ィの斥候《ものみ》ではもっとも人数が多い。その一部は、土手下の悲鳴をきいて河原へ駈けおりている。
歳三は、すばやく欅下に飛びこんで、黒い影を一つ、真向から斬りさげた。
相手は、凄い音をたてて地上に倒れた。一太刀で絶命したらしい。
すぐ死体に駈けよって、相手の刀をうばった。
(こいつは斬れるかな)
自分の刀は、鞘におさめている。粗《あら》っぽい俄《にわ》か研ぎだけに斬れ味に自信がなかったのだ。
歳三は、欅の蔭を離れない。
木《こ》の下闇《したやみ》とはよくいったもので、相手からはみえないし、自分からは、月下の路上や橋の上に走り動く影が、昼間のようにみえる。
(織るように走ってやがる)
歳三は、飛び出した。
手近のやつの腰をぐわっと払ったが、よほど硬い百姓骨なのか、刃がびんと返って斬れなかった。斬られた男は背を反らして五、六歩よろよろと走っていたが、そこまできてはじめて恐怖がおこったのか、きえーっと叫ぶなり、
「そこだ。欅の下にいる」
(仕損じたか)
歳三は、すばやく樹の下にもどった。
悲鳴をききつけてばらばらと四、五人駈け寄ってきたが、樹の闇が深くて近寄れない。月の下では、樹は城の役目をするものだ。
——取りまけ。
落ちついた声がきこえた。
七里研之助である。
そのうち、だんだん人数がふえてきて、十四、五人になった。
「深津」
と、七里は、門人らしい男の名をよんだ。
「火の支度をしろ」
樹の下を照らすつもりらしい。
深津、とよばれた男は、人数の背後にまわると、地面にかがんで燧石《いし》を撃ちはじめた。
|わら《ヽヽ》束に煙硝を仕込んである。点火するとぱっと燃えだした。
歳三はすばやく樹の裏にまわったが、足もとは崖になっている。
(いかん)
戻ろうとしたとき、すでに深津、という火術方は、|わら《ヽヽ》松明《たいまつ》をあげて、樹の根にむかって投げようとしていた。
その差しあげた右腕が、わっと落ちた。背後に、沖田がまわっている。
あの坊やが、と歳三があきれるほどの素早さで沖田は、手槍をもったその横の男を斬りさげ、同時に|わら《ヽヽ》松明を大きく蹴って河原へ落した。
あたりは、もとの闇になった。
闇になったと同時に、歳三は樹の下から突進して、七里とおぼしい大きい影に斬りかかった。
存分に撃ちこんだつもりだったが、七里の撃ち込みのほうが激しく、一たんは歳三の刀を払い、崩れるところを面にきた。あやうく受けたとき、
ばっ
と火花が飛び、歳三の刀が|つば《ヽヽ》元から叩き折られた。
(いけねえ)
飛びさがった。
(とんでもねえ百姓刀だ)
キラリ、と自分の刀を抜きおわるまでに右手の男に殺到していた。
どっと、そのあたりが崩れ立ったが、歳三は五、六度闇|くも《ヽヽ》に振りまわすうちに、何人かの、手、腕、肩を傷つけた。
沖田は、歳三の背後にまわっている。互いにかばいあって、敵を寄せつけない。
「総司、何人斬った」
「三人」
落ちついている。
「が、土方さん、変ですよ」
云いながら、前に来た男を右袈裟に斬り、
「ほら、変でしょう」
といった。
「なにが」
歳三も、ようやく息が切れている。
「刀が、棒のようになっている。奴ァ、死んじゃねえんだ」
「脂《あぶら》が巻いたんだろう。そろそろ」
「そろそろ?」
また一人、沖田へ撃ちこんできた。その出籠手《でごて》を沖田はあざやかに撃ち落してから、さっととびさがると、
「そろそろ、何です? 土方さん」
「遁《に》げるか」
「それがいい。私はもうこんなの、いやになった。こわくなってきましたよ」
そのくせ、沖田の太刀筋は糞落着きにおちついている。
「遁げろ」
いうなり、歳三は飛びこんで、前の男の顔を右|こめ《ヽヽ》かみ《ヽヽ》からたたき割り、のけぞったその死骸を踏みこんで土手の上を走った。
すぐ下の桑畑にとびおりた。
沖田もついてくる。
二、三十歩離れると、もう敵方からは影がみえない。
例の正光院の墓地まで駈けもどると、石塔の間にかくしてあった風呂敷包みを解いた。歳三の着物は、泥と返り血で、革のようになっている。
「総司、着かえるんだ」
「私?」
沖田はちょっと自分の着物をみて、
「いいですよ。泥がくっついているけど、こんなの、すこし乾けば払い落せます」
「………」
歳三は、ふりかえって沖田の|なり《ヽヽ》を|えり《ヽヽ》もとから|すそ《ヽヽ》まで舐《な》めるように見たが、だんだん開《あ》いた口がふさがらなくなった。この男はどんな斬り方をするのか、返り血もあびていない。
「お前《めい》……」
小面《こづら》憎くなった。
(こいつ、鬼の申し子か)
歳三は、佐藤家から借りた木綿の粗末な紋服に着かえ、野袴をつけ、手甲脚絆のひもを一筋ずつ結びおわると、
「あれァ、何刻《なんどき》だ」
遠くの鐘の音に耳をすましている。
「亥《よつつ》(夜十時)でしょう」
「総司」
歳三は、もう歩きだしている。月が、脂光《あかびか》りのした両肩にあたっていた。
「江戸へ帰れ」
「土方さんは?」
「帰る」
歳三の足は早い。沖田は追いすがるように、
「一緒に帰りましょう」
「ばかめ。こういうことのあとだ。二人|雁首《がんくび》をそろえて本街道を歩けるか」
「土方さん」
沖田は、くすくす笑った。
あとはいわない。云えば、この男のくせで歳三は本気になってごまかしてしまう。
(女の所だな)
沖田は、まだ女の味を知らない。どういうわけか、そういうことには生まれつき淡いほうらしく、道場の他の連中が岡場所の女に夢中になったりするのをふしぎに思っている。
が、いまの歳三の気持は、なんとなくわかるような気がしたから、
「では、ここで」
といった。
沖田は、聞きわけのいい坊やのような微笑をのこして、真暗な桑畑の中へ身を入れた。用心して本街道へは出ず多摩川づたいに矢野口まで出、国領で本街道にもどるつもりである。そのころには夜も明けるだろう。
歳三は、そのまま本街道へ出、府中の宿場に入った。
町は、すでに灯がない。
月は、もう隠れている。
宿場の軒々を手でさぐるようにして歩きながら六社明神の森のなかに入った。
燈籠に、点々と灯が入っている。
やがて巫女《みこ》長屋をさぐりあてると、鈴振り巫女の小桜の家の戸を、忍びやかに叩いた。
叩く法がある。きめてある。
小桜はすぐ歳三と察したらしく、桟《さん》をはずして中へ入れた。
「どうしたの」
歳三の手をとろうとしたが、
「まあ、くさい」
手をはなした。血のにおいが滲《し》みこんでいるのかもしれない。
「膩薬《あぶらぐすり》はあるか」
「怪我?」
巫女は、小首をかしげた。
「それに 焼酎《しようちゆう》も」
もろ肌ぬぎになった。妙な見栄があって沖田にはいわなかったが、右肩の付け根に一カ所、左の二の腕に一カ所、白い脂肪がみえるほどの傷《て》を負っている。
「犬に噛まれた」
「犬がこんな歯かしら」
小桜は手当の用意をするために立ちあがった。小腰を振るようにして奥へ入ってゆくのをみると、歳三は、
「いい、ここへ来い」
鋭くいった。我慢がしきれなくなっている。分倍橋での血の騒ぎが、まだおさまっていない。
(喧嘩と女、こいつは一つものだな)
血のにおいがする、どちらも。そう思った。
歳三は、女をつかみ寄せるようにして、膝の上に倒した。
そのころ、沖田は、多摩川の南岸を、覚えているだけの童唄《わらべうた》をうたいながら東へむかって歩いていた。