歳三は山南敬助が、大きらいだ。山南が他道場からききこんできたこの幕府|肝煎《きもいり》「浪士組」設立の情報は、平素、(歴とした武士になりたい)とおもっている歳三にとって飛びあがるほどの耳よりな話だったが、(待てよ)とおもった。提供者の山南が気にくわない。
「もう一度、たしかめてみよう」
と、近藤にすすめた。
山南敬助は、幕府の趣旨を、
「攘夷のため」
と、いっている。これは、策士清河八郎の思想だ。はたして然《しか》るか。歳三には、疑問である。
歳三は、近藤と一緒に、牛込|二合半《こなから》坂《ざか》にあった屋敷に、この徴募の肝煎役である松平|上総介《かずさのすけ》を訪ねた。むろん、しかるべき紹介状はもらっている。
松平上総介は、気さくに会ってくれた。これも時勢であった。考えてもみるがいい。上総介の家系は、三代将軍家光の弟忠長の血すじで、捨扶持三百石ながらも格式は、徳川宗家の連枝《れんし》で、千代田城中では親藩大名の末席につくことのできる身分であった。世が世なら、やすやすと浪人剣客と会うような人物ではない。
「ああ、あのことか」
とこの貴人はいった。
「役目は、将軍家《たいじゆこう》の警固だよ」
上総介のいうところでは、近く、将軍家が京へおのぼりになる。
京は、過激浪士の巣窟だ。毎日、血刀をもって反対派の政客を斬りまくっている。将軍の御身辺にどのような危険があるかもわからない、武道名誉の士を徴募するというのである。
「それは」
近藤は、感激した。
「まことでござりまするか」
このときの近藤の感激がいかに深いものであったか、現代《とうせつ》のわれわれには想像もつかない。将軍といえば、神同然の存在で、二百数十年天下すべての価値、権威の根源であった。浪人近藤勇|昌宜《まさよし》は、額をタタミにこすりつけたまましばらく慄えがとまらなかった。歳三がそっと横目でみると、近藤は涙をこぼしていた。事実近藤にすれば、一生も二生もささげても悔いはない、という気持だった。
男とは、ときにこうしたものだ。
近藤の唯一の愛読書は、頼山陽の『日本外史』であった。日本外史は、権力興亡の壮大な浪漫《ロマン》をえがいた一種の文学書で、その浪漫のなかでも、近藤のなにより好きな男性像は、楠木|正成《まさしげ》であった。
楠木正成は、南北朝史上のある時期にこつぜんとあらわれてくる痛快児である。それまでは、河内《かわち》金剛山にすむ名も無き(鎌倉の御家人帳にものってない)土豪だったが、流亡の南帝(後醍醐天皇)から「われをたすけよ」と肩をたたかれたがために、たったそれだけの感激で、一族をあげて振わざる南朝のために奮戦し、ついに湊川《みなとがわ》で自殺的な討死をとげた。頼山陽はその著でこれを、日本史上最大の快男児としてとりあつかっている。
英国にもこんな例はある。
伝説だが、有名な獅子心王リチャードのとき、リチャード王が十字軍遠征で国を留守しているすきに王弟が国を簒奪《さんだつ》しようとした。その王権擁護のために立ちあがったのが、シャーウッドの森の土豪ロビン・フッドで、この森の英雄の痛快無比な物語は、いまも英国人の愛するところだ。が、これは余談。
歳三は、それから数日のち、日野宿の名主佐藤彦五郎のもとに行って、浪士組加盟のいっさいを告げ、
「ついては義兄《にい》さん、たのみがある」
といった。
「私にできることか。歳さんが武士になるのだ。きける話ならなんでもきく。どういうことだい」
「刀です」
「こいつはうかつだった。催促されなくても私のほうからだまって贈るべきだった」
とあわてものの彦五郎は仏間へ案内し、樫材《かしざい》に鉄金具を打った大きな刀箪笥《かたなだんす》をぽんとたたいて、
「三十|口《ふり》はある。気に入ったものならなんでももっていきなさい」
と、底ぬけに人のよさそうな微笑をうかべた。
義兄の微笑をみて、歳三はこまった。
そんな雑刀なら、束《たば》でくれてもほしくはないのだ。名刀がほしい。それも、銘の点で、大それた野心がある。しばらく考えて、
「姉さんはいますか」
「おのぶか。他行《たぎよう》しているが、もうもどるはずだ。おのぶにも用があるのかえ」
「お夫婦《ふたり》そろったところで、無心をしたいのです」
「そうかそうか」
やがておのぶが、先代の墓参から帰ってきて、浪士組参加の一件を歳三の口からきいた。
「そう」
肚のふとい女で、なにもいわない。
おのぶは、土方家の六人兄妹のうちの四番目で、家じゅうで持てあまし者のこの末弟をひどく可愛がっていた。歳三も、この姉が大すきで、子供のころから生家にいるよりも、姉の婚家である佐藤家にいるほうが多かった。
「頼みとは、なんのこと?」
おのぶがいった。
「刀を購《もと》めます。金子《きんす》を無心したいのです」
「いかほどですか」
「口をきった以上は、断わられるのはいやですから、まず、承知した、といって下さい」
「いいよ」
彦五郎は、肚の太いところをみせた。
「いくらだい」
「百両」
これには、夫婦とも沈黙した。このあたりの良田数枚を売ってもそれだけの金にはならない。屋敷で飼っている小者の給金が、年に三両という時代である。
彦五郎の声が、つい荒くなった。
「一体、どういう刀を買うのだ」
「将軍、大名が持つような名刀を買いたい」
と、歳三は、平然としていった。
「だいそれた。……」
「と義兄《あに》上《うえ》は思いますか」
歳三は、眼がすわっている。
「が、金高が大きすぎる」
「京では、西国諸藩や、不逞浪人がわがもの顔で町を横行している。それらの狂刃から将軍をお護りするのです。護持する刀にも、それにふさわしい品位と斬れ味が要る」
「———」
「近藤さんは、虎徹《こてつ》をさがしているそうですよ」
「虎徹を?」
これも、大名ものだ。
「勇が、か。虎徹を」
「そうです。いま愛宕《あたご》下《した》日蔭町の刀屋が必死にさがしまわっています。京での仕事は、腕と刀次第で生死《しようじ》が決する。私も虎徹とならぶような業物《わざもの》をもちたい」
「そ、それもそうだな」
彦五郎は、おびえに似た眼で、女房のおのぶを見た。おのぶは落ちついている。じつをいうと、実家の土方家から輿入《こしい》れするとき、実父が五十両の金を鏡台に入れてくれた。
「歳《とし》、義兄《にい》さんから五十両貰いなさい」
「五十両でいいのか」
おのぶは、あとは自分の五十両を足し、二十五両包み四つを作って歳三に渡した。
「恩に着ます」
と、この他人には傲岸不遜《ごうがんふそん》な男が、おのぶがおもわず頬をなでてやりたくなるような子供じみた笑顔を作ってそれをうけた。
その翌日から、この男は、愛宕下の刀屋町をはじめ、江戸中の刀屋を駈けまわって、
「和泉守《いずみのかみ》兼定《かねさだ》はないか」
ときいた。
名代の大業物である。
斬れる。上作《じようさく》なら南蛮鉄をも断つ。ちなみに刀剣の「大業物」の位列というものはきまったものだ。有名な堀川国広、藤四郎祐定、ソボロ助広の異名《いみよう》で有名な津田助広など二十一工で、なかでも和泉守兼定は筆頭にあり、斬れ味は、刃に魔性があるといわれたほどのものだ。
「兼定を? あなたさまが?」
と、どの刀屋もおどろいた。一介の浪人|体《てい》の者がもつべきものではない。
「初代や三代兼定ならございますが」
という者もある。おなじ和泉守兼定でも初代と三代目は凡工で、値もやすい。浪人にはころあいの差料《さしりよう》である。しかし歳三は、
「ノサダだ」
と、いった。二代目である。いわゆる大業物兼定は、異称ノサダといわれている。刻銘を、兼定とせず兼|★[#うかんむり+之]《ヽ》と切るのが癖だったからで、文字を分解して之《ノ》サダというのだ。
古くは戦国の武将細川幽斎、忠興父子が好んだもので、ほかに、豊臣秀吉の猛将で「鬼武蔵」といわれた森武蔵守は、この兼定の十文字槍を愛用し、みずから、
——人間無骨《にんげんぶこつ》
というぶきみな文字を刻んで、敵を芋のように串刺しにしたものである。
歳三は、その「人間無骨」の故事をきき知っている。大業物兼定の舞うところ、人間は骨のないのと同然になるのであろう。
「和泉守兼定はないか」
と、毎日歩いた。
「ございます」
といったのは、なんと浅草の古道具屋で、両眼白く盲《めし》いた老人である。
「たしかか」
「疑いなさるなら、買って頂かなくともよろしゅうございます」
「いや、その眼で鑑定《めきき》はたしかかと申しているのだ」
「刀のことなら」
老人は乾《かわ》いた声で嗤《わら》った。
「目明きのほうがあぶない。私は十年前の七十の齢に盲いたが、それ以来、刀をにぎれば雑念がない。愛宕下の刀師《れんじゆう》でも、難物ならこの浅草までやってきて私ににぎらせるほどです」
「みせてくれ」
老人は、奥から、触れるもきたないほどに古ぼけた白鞘の一口《ひとふり》を出してきた。
「ごらんなされ」
抜いてみた。
赤さびである。歳三は、自分の顔が蒼ざめてゆくのがわかるほどに怒りをおぼえた。が、さあらぬ体《てい》で、
「値《あた》いは、いかほどか」
「五両」
歳三は、だまった。しばらくこのひからびた老盲をにらみすえていたが、やがて、
「なぜ、やすい」
といった。
「これは」
笑った口に、歯がなかった。
「廉《やす》いのがご不足とはおどろきましたな。百両、とでも申せばご満足でございますか」
「なぶるか」
と低い声でいったが、老人はおどろかない。
「刀にも、運賦天賦《うんぷてんぷ》の一生がございます。この刀は、誕生《うま》れた永正(足利末期)のころなら知らず、その後は一度も大名大身のお武家の持物になったことがない。ながく出羽の草深い豪家の蔵にねむり、数百年ののち盗賊にぬすまれてやっと暗い世に出た。その賊が、手前どものほうに持ちこんだ、といういわくつきのものでございます」
容易ならぬことを老人は明かした。その筋にきこえれば、手に縄のかかる事実《はなし》だ。それを明かすとは、どういう真意だろう。
「見込んだのさ」
老人はぞんざいにいい、さらに語を継いだ。わざわざ和泉守兼定をさがしているというこの浪人が、盲人の勘で、ただものでない、と思ったというのである。
「数百年間、この刀はあなた様に逢いたがっていたのだろう。手前には、なんとなくそういうことがわかります。五両、それがご不満ならさしあげてもよろしゅうございます。お嗤いなさいますか。道具屋を五十年もしていると、こういう道楽もしてみたいのさ」
どこか、伝法な口ぶりがある。ただの道具屋渡世だけの親爺ではなく、裏では、奉行所《おかみ》のうれしがらないこともしているのかもしれない。
「これに五両を置く」
と歳三はいった。
すぐ、愛宕下で砥《と》がせた。
出来あがったのは京へ出発もちかい文久三年の正月である。
拵《こしら》えは、実用一点ばりの鉄で、鞘は蝋色《ろいろ》の黒漆《こくしつ》。歳三の指定である。
みごとな砥ぎで、たれがみてもまぎれもない和泉守兼定であった。
刃文に点々と小豆《あずき》粒《つぶ》ほどの小乱れがあり、地金が瞳を吸いこむように青く、柾目肌《まさめはだ》がはげしく粟だっている。
(斬れる。——)
刀をもつ手が、慄えそうであった。
歳三は、その夜から、沖田総司がいぶかしんだほど、挙措《きよそ》がおかしくなった。
第一、夜、道場に帰らない。
暁方になって帰ってくると、昼まではぐっすり寝て、夕暮れにまた出かけるのである。
「土方さん」
と、沖田は可愛く小首をかしげた。
「やっぱり、|ある《ヽヽ》こと《ヽヽ》なんですねえ」
「なにがだ」
「狐憑《きつねつ》き、てことですよ。お顔までが似てきている。私の知りあいに山伏がいますが、調伏《ちようぶく》に連れていって差しあげましょうか」
「ばか」
歳三は、刀に打粉《うちこ》を打っている。
陽《ひ》が、暮れはじめて、明り障子を背にしている沖田の顔が、暗くてよくみえない。
「今夜は、何町です」
「———?」
「だめですよ、隠しても」
この若者は、気づいているのだ。
ちかごろ、辻斬りがはやっている。多くは物盗りではなく、攘夷熱で殺伐になってきたため、浪人剣客が、異人襲来にそなえて腕を練る、と称して夜、町に立つのである。
毎晩のように人が斬られた。
被害者の多くは、武士である。このため、武士で、夜中往来する者がすくなくなった。
事件は、この小石川近辺にも多い。
彗星が連夜東の空にむかって飛んだこの年末など、小《こ》日向《びなた》清水谷《しみずだに》で一件、大塚窪町で一件、戸崎町の田圃で一件、おなじ夜にいずれも主人持ちの武士が斃《たお》された。
この年に入って、道場のある柳町の石屋の前で旗本屋敷の中間《ちゆうげん》が斬られたときなど、奉行所同心が近藤道場に目をつけてしつこくたずねてきたほどである。
「よくない悪戯《いたずら》ですよ。およしになったほうがいいとおもうがなあ、私は。——」
と、沖田はそれほどでもない顔つきでいった。
が、歳三はその夜も出かけた。
辻斬りが、目的ではない。
そういう男に逢いたくて、歳三は毎夜、うわさの場所を点々と拾って歩いてゆく。
ついに出逢った。
戌《いぬ》ノ下刻。
歳三が金杉|稲荷《いなり》の鳥居の前を通って久保田某という旗本屋敷の角まできたとき、不意に背後から一刀をあびせられた。
あやうく塀ぎわへ飛んでくるりとふりむいたときは、すでに和泉守兼定を抜いて、癖のある下段にかまえている。
(………?)
歳三は、むっつりだまったままだ。月がある。その下で、相手の影は、しずかに左へ移動している。
(出来るな)
と思ったのは、相手がふたたび刀を納め、右手を垂れたまま、歳三のまわりを、足音もなく歩きはじめたからだ。その足、腰、居合の精妙な使い手らしい。
歳三は、眼をこらした。
夜目というのは、間違っても影を見据えるものではない。影のやや上を見すえれば、物影がありありと視野の縁《ふち》にうかぶ。夜闘の心得である。
「おい」
と、相手はいった。
「訊いておく。何藩の者か。ついでに名も名乗ってもらえば、供養はしてやる」
「べっ」
と、歳三は|つば《ヽヽ》を吐いた。それっきり歳三は沈黙している。
相手は、歳三の仕掛けを待つ様子であった。間合は、六尺しかない。双方いずれが一蹶《いつけつ》しても、いずれかが死骸になるだろう。
歳三も、仕掛けを待っている。
こちらが仕掛ければ、その|起り《ヽヽ》を撃つのが居合の手であった。
(どう抜かせるか)
居合には、それしか応じ手がない。
歳三は、そっと膝をまげた。
一挙に伸ばした。
そのときは塀づたいに一間も横にとびのき、同時に脇差を弾《はじ》けるような早さで抜き、抜いたときは、狂気のように相手との間合の死地《なか》へとびこんでいた。
脇差を投げた。
よりも早く相手はすばやく踏みこみ、腰をおとし、白刃を空《くう》にうならせて歳三の頭上、まっこうに斬りおろした。
鉄が、火を噴《ふ》いた。
いつのまに持ったか、歳三は左拳《ひだりこぶし》で鉄扇を逆ににぎって、敵の白刃を受けた。
そのときはすでに、歳三の右手浅くにぎった和泉守兼定が風のように旋回して、男の右面に吸いこみ、骨を割り、右眼窩《みぎがんか》の上まで裂き、眼球がとび出、あごが沈んだ。そのままの姿勢で、男は、顔面を地上にたたきつけて倒れた。即死である。
(斬れる)
その夜が、正月三十日。
数日後の二月八日に歳三ら新徴の浪士三百人は小石川伝通院に集結して江戸を出発、中仙道六十八次、百三十里を踏み歩いて京へのぼったのは、文久三年二月二十三日の夕刻である。
歳三は、壬生《みぶ》宿所に入った。
袖に、江戸の血が、なお滲《にじ》んでいる。