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燃えよ剣45

时间: 2020-05-26    进入日语论坛
核心提示:鳥羽伏見の戦い・その四劇場がそうである。客席を暗くして舞台の人物群にだけ照明をあてる。新選組にとって、この戦場はちょうど
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鳥羽伏見の戦い・その四

劇場がそうである。
客席を暗くして舞台の人物群にだけ照明をあてる。
新選組にとって、この戦場はちょうどこのとおりであった。
後方で炎々と燃えさかっている伏見奉行所の猛炎が、街路上の新選組、会津藩兵をして舞台上の人物群にしてしまった。
薩長の陣地は、暗い客席、といった戦術的位置である。自在に銃砲火をあびせることができた。
「ひでえことになりゃがったなあ」
と、歳三は奉行所の猛炎にむかって吐きすてながら、とりあえず隊をまとめて京町四丁目から二丁目にかけての露地々々に隊士をかくして、「照明」から退避した。
 この正月三日は、陽暦でいえば一月二十七日である。この日、英国公使館書記官アーネスト・サトーは大坂にいた。この若いきっすいのロンドンっ子については知られすぎている。かれは通訳生として文久二年来日し、のち薩長に接近し、あふれるような機智と的確な時勢眼で、上役のパークス公使をたすけ、一方薩長側にさまざまの助言をした。このアーネスト・サトーの『幕末維新回想記』のこの日の項によると、「一月二十七日の晩、京都の方角に大きな火災がみえた。遠藤(サトーの従者)にきくと、伏見で薩摩とその連合軍が、幕軍と戦っているのだ、という」とある。伏見奉行所の火災は、十三里はなれた大坂から望見できるほどのものであったわけだ。その「照明」の巨大さがわかろうというものである。
「ちえっ、運のわるい。もう五十歩で敵本陣へ斬り込むてえところでこの|ざま《ヽヽ》か」
と、十番隊組長原田左之助は剣を鞘《さや》におさめた。
左之助のいうとおり、奉行所の火事さえなければ、伏見における夜戦は幕軍の勝ちになっていたかもしれない。
いや、この戦闘正面だけでなく鳥羽伏見の戦いそのものが、いかなる国のいかなる名参謀が検討しても、図上戦術に関するかぎり幕軍が勝つべき戦いである。
京都の薩長は、兵力少数である。
予備軍もすくない。手一ぱいに兵を出している。鳥羽と伏見の御香宮の前線がもし崩れれば、退却、天子を擁して京を脱出、再挙、とまで薩軍の首脳部は考えていた。
なるほど、兵器は薩長がすぐれていた。
が、幕軍のほうも、背嚢《はいのう》を背負って完全洋式化したいわゆる「歩兵」をぞくぞく西上させつつある。
その人数も圧倒的に多い。
だが、戦意がなかった。薩長のように必死でなかった。この点も、日本史に封建体制をもたらした関ケ原の合戦に似ている。関ケ原の戦いも図式的にみれば西軍が敗ける戦いではない。人数も多く、戦場における地の利もよかった。ただ西軍に戦意がとぼしく、必死に働いたのは石田三成隊、大谷|吉継《よしつぐ》隊、宇喜多秀家隊ぐらいのものである。
鳥羽伏見の戦いにおける第一日も、必死に戦闘したのは、会津藩と新選組だけであった。しかもそれらは不幸にも、刀槍部隊で洋式部隊ではない。
英国人サトーでさえ幕軍主力を嘲笑している。
「一万の大軍を擁しながら意気地のない連中だ」
と。——英国ははやくから幕臣の腰抜けに見切りをつけ、薩長による日本統一の構想をひそかに後援してきたが、
「自分たちの賭けは裏切られなかった」
と、安堵した。
歳三、——
路上に立っている。東南方の奉行所の猛火が、歳三の姿をくっきりと浮かびあがらせた。
(戦さは勝つ)
と、歳三は信じている。この幕軍最前線の修羅場《しゆらば》さえ死守しておれば、明朝には洋式武装の幕軍歩兵が大挙してやってくるのだ。げんにその先発の幕軍の仏式第七連隊がすでに伏見に入りつつある。
幸い、友軍の会津藩兵は、ひどい旧式装備ながらも、その藩士は、薩摩とならんで日本最強の武士、といわれた本領をみごとに発揮し、例の林権助隊長などは、体に三発の弾をくらいながらも、一歩もひかない。
ところが。
午後八時ごろになって、歳三が伝令として使っていた平隊士野村利八が駈けもどり、
「御味方、退《しりぞ》きつつあります」
と報告した。
「うそだ」
と歳三はどなり、二番隊組長永倉新八らに確認を命じた。
新八は、西へ走った。
走ったが、両替町一丁目付近にいた幕軍第七連隊の一部がいなくなっている。
新八はさらに西へ走り、新町四丁目へ出た。
(いない)
ここに第七連隊が密集していたはずだ。
(どこへ行きゃがったか)
と、新八は狂気のように南へ駈けた。やっと伏見松林院御陵の東角で、第七連隊の最後尾に食いついた。
「そのほうども」
と、永倉新八は血相をかえた。永倉は「大御番組《おおごばんぐみ》」で歴とした旗本である。
「歩兵」などといっても、もともとは江戸、大坂で公募したあぶれ者、中間《ちゆうげん》、火消といった連中だから、永倉が威猛高《いたけだか》になるのは当然なことだ。
「ど、どこへゆくんだ」
「知らねえよ。大将が逃げろ、というから逃げるだけさ」
と、歩兵の一人がそっぽをむいた。永倉はそいつの横っ面を力まかせになぐった。
——あっ。
と、ぶっ倒れたが、根が「兵隊」を志願したというようなあぶれ者である。
「な、なにをしやがる」
と起きあがって、銃をさかさにもち、永倉に打ってかかった。永倉は体《たい》をかわしざま、高蹴りに蹴り倒し、
「新選組の永倉新八を知らんか」
と、どなった。
みな、あっとどよめいた。
そこへ歩兵指図役(幕臣・士官)が駈けつけてきて、
「な、なにか無礼を働きましたか」
と、蒼くなっている。
永倉はそいつの頬げたもぶんなぐり、
「無礼もくそもあるか。第七連隊はどこへ行くときいているのだ」
と、いった。
「た、たいきゃく」
「退却?」
「豊前守《ぶぜんのかみ》様(松平正質・幕軍総督)の御命令です。高瀬川の弥左衛門橋のむこう(横大路村)まで退却します」
「新選組はきいとらんぞ」
「それは足下のご勝手でしょう」
「なにっ」
「われわれは命令で動いている。新選組がどうこうとまでは知らぬ」
ぱっと新八、剣をぬいた。
指図役は逃げた。
偶然、そのとき、新町九丁目あたりにいた長州軍が南下してきて一斉射撃を加えた。
足もとに土煙があがった。
幕府歩兵は算をみだして逃げた。
「ちっ」
永倉は、敵の方向へ走った。
軒々を伝い走りに走り、民家を駈けぬけなどして、やっと新選組の屯集地点にもどった。
「土方さん、歩兵《やつら》は遁《に》げやがったよ」
「ほう」
と、顔色もかえずに感心したのは、歳三の横にいた会津藩隊長の佐川官兵衛である。
「逃げましたか」
ひとごとのようだ。右眼を砲弾の破片でやられ、半顔に白布をぐるりと巻き、真赤に血をにじませている。齢三十八。
官兵衛六百石。のち会津に帰ってから、各地で転戦し、軍事奉行頭取となり、会津落城の寸前には家老になって作戦を掌握し、落城まで戦った。維新後警視庁に奉職し、明治十年の西郷の乱(西南戦争)には警視庁よりぬきの剣客をひきいて「官軍」の巡査隊長となり、戊辰の役のうらみを晴らすべく薩軍にしばしば斬り込みをかけ、ついに戦死した。大砲奉行の林権助とともに、いかにも会津武士らしい男である。
「それにしては」
と、歳三は首をかしげた。
「薩長は追撃をしませんな。追撃する余力がないとみたが、佐川さんどうです」
「土方さん」
と、佐川官兵衛は別なことをいった。
「われわれは踏みとどまりましょう」
「あたりまえですよ」
と、歳三はすぐ負傷者の後送について、会津藩に依頼した。
調べてみると、戦死者は、会津藩、新選組をふくめて三百人。重傷者はほぼ百数十人とわかったから、すぐ看護隊を組織して後送した。
その直後、薩長兵が襲来した。
「斬り込め」
と、歳三は、白刃をふるって京町通を北へ駈けた。新選組六十余人、それに残留した佐川官兵衛指揮の会津藩兵がこれにつづいた。
ばたばたと銃丸で倒れた。
「駈けろ」
敵軍に飛びこむ以外に手がない。
両軍、激突した。すさまじい白兵戦になった。
歳三、飛びちがえては斬り、飛びちがえては斬った。
白刃の乱闘となれば、新選組のお家芸である。
さらに会津の槍隊が穂先をそろえて突入してきた。
薩軍というのは剽悍《ひようかん》だが、新選組のように剣客をそろえているわけではなく、白兵戦でも不馴れであった。それに、薩摩人の特徴で、
「分《ぶ》がわるい」
となると、粘着力がない。下手な戦さでねばるよりも遁《に》げたほうが戦術的にもいい、という合理的な思想が、古来ある。
のちの西南戦争のときも、熊本から西郷軍に参加した肥後人は、薩摩人のこの癖には閉口したという。いったん敗勢になったばあい、あっというまに逃げ、肥後人が気づいたときにはあたりには薩摩兵がたれもいないというほどのすばしこさであった。
この場合も、乱軍のなかにいた薩摩の隊長が、
「退《ひ》くんじゃあ、みんな」
とひと声あげた。そのあとはもう、スポーツといっていいほどのさわやかな逃げ足で散ってしまった。
「追うな」
歳三も隊士の足をとめた。こっちも追撃して敵の主力と衝突するほどの兵力がないのだ。
「退けっ」
両軍退却、といった妙な戦さである。もとの屯集所にもどった。
もどると、幕府総督松平豊前守からの使番がきていた。
「高瀬川の西岸まで退いてほしい」
という。
歳三が訊きただしてみると、いったん退却した幕府歩兵第七連隊は、豊前守の命令で高瀬川西岸にふみとどまり、築造兵(仏式工兵)をして野戦陣地を構築中であるという。
「なんだ、おれは大坂まで逃げたのかとおもった」
と、歳三はあざわらった。
「ご親切だが、新選組と佐川さんの会津兵はここでとどまります」
「しかし、敵の包囲をうけますぞ」
「冗談じゃない。薩長に包囲するだけの人数があれば、第七連隊の退却のときに追尾してあんたなどはいまは生きちゃいませんよ」
「しかし」
「われわれはとどまる」
歳三は使番を追いかえした。
 事実、京都の薩長には兵力の余力はまったくなかった。軍資金も同様で、朝廷で重臣の持ち金をかきあつめさせたのが、たった五十両であったという。歴史を転換させた戦いでその勝利側の兵站部《へいたんぶ》に五十両の準備金しかなかったという例は、世界史上まれであろう。そういう相手に対し、旧政府軍であるはずの幕軍がなぜ負けたのか。
 ほどなく二人目の使番がきた。
やはり、
「後退せよ」
という。
歳三はばかばかしくなって、
「高瀬川西岸の陣地はできたのかね」
ときいた。
「まだです」
「その築造中を夜襲されたらどうする」
「さあ」
歳三は笑いだした。
「後退しよう。ただ、高瀬川陣地が出来あがるまでわれわれはここで支えている」
急造陣地が完成したのは午前零時すぎで、歳三たちは午前一時すぎ、陣をはらって高瀬川陣地までさがった。
翌四日。
この水郷《すいごう》特有の濃霧の朝で、陽がのぼったとはいえ、数尺むこうもみえなかった。
この気象も、慶長五年九月の関ケ原の合戦がはじまる朝に似ている。
ただ雨は降っていない。そのうえ寒気がひどく、水溜りには厚い氷が張っていた。
「天佑《てんゆう》ともいうべき霧だな」
と、歳三は仮眠から起きあがってつぶやいた。
濃霧のために、敵砲兵が射撃できず沈黙したままなのである。
天佑といったのは、
(時間がかせげる)
と思ったのだ。じつをいうと、大坂から夜を徹して急行軍しつつある幕軍の洋式部隊第十一連隊が予定ではもう到着していいころだった。指揮官は、佐久間|近江守《おうみのかみ》信久であった。幕府の歩兵奉行で、骨柄《こつがら》といい容貌といい、幕臣のなかではめずらしく三河武士らしい豪宕《ごうとう》さをもった男だったという。
佐久間とは別に一個大隊を率いてやってくるはずの歩兵頭《ほへいがしら》窪田備前守|鎮章《しずあき》も、決して弱将ではない。ただかれが率いている大隊は大坂で急募した町人兵で、なかには長州の間者もまじっているといううわさであった。
いや、第十一連隊指揮官佐久間近江守の馬の口取り英太という者は長州の間者であったということが明治後わかった。
午前七時。
これらのフランス士官が訓練した幕兵がぞくぞくと戦場に到着した。
「左之助、鉄砲屋がきたよ」
と、歳三はよろこんだ。
午前八時、霧晴る。
快晴。
たちまち両軍の砲撃戦が、鳥羽伏見の天地にこだましはじめた。
新選組は幕軍十四大隊の洋式火器に援護されつつ、薩軍一部隊のまもる中島村に接近し、白兵突撃を行なって一挙に占領した。
大坂街道では佐久間近江守の第十一連隊が大いに進出して薩長側を圧迫した。
淀山橋方面では、会津部隊の一部白井五郎大夫の隊が砲二門をもって進撃し、ついに薩長兵を潰走せしめ、下鳥羽北端、というほとんど敵陣地にまで進出している。
戦闘第二日目は幕軍の勝利で、この戦況が御所に伝わるや、公卿たちが色をうしなって騒いだという。兵力薄弱の薩長土を「官軍」としたことが軽率だったというのである。
戦闘第三日目の正月五日も快晴。
両軍の勝敗、容易に決しなかったが、幕軍歩兵の指揮官佐久間近江守、窪田備前守が、前日の戦闘で指揮官みずから先頭に立って斬りこんだため、相ついで戦死し、このため幕府の洋式部隊の活動がにぶった。潰走しはじめる隊が多く、会津藩、新選組が、自軍の退却を食いとめるのに必死になった。
淀堤《よどづつみ》を退却する幕府歩兵に、新選組原田左之助と会津藩士松沢水右衛門が剣をぬいてさえぎり、
「なぜ逃げる。戦さは敗けておらんぞ」
とどなったが、ついに支えきれず、
「大砲を置いてゆけ、大砲を」
と、奪いとった。
 が、すでに朝廷では薩長土をもって、
「官軍」
とすることを決定し、仁和寺宮《にんなじのみや》が総督として出陣したため、山崎の要塞をまもっていた幕府方の藤堂藩が寝返りをうち、このため幕軍は、挟撃《きようげき》される戦勢となった。それをおそれて、幕軍中最弱の歩兵がまず潰走したのである。
そのうえ、京にあって中立をまもっていた諸藩が、
「錦旗あがる」
という報とともに、薩長の戦線に参加し、それが誇大に幕軍に伝わった。
会津・桑名両藩および新選組は、部分的な戦さではほとんど六分の勝ちをおさめていたが、午後になって、ついに主力の敗走にひきずられた。
この日、歳三はついに三十人にまで減少した隊士を掌握しつつ淀堤千本松に幕軍歩兵指図役をよび、
「最後の一戦さをしよう」
と約束し、剣をふるって路上を突撃した。
しかしついて来る者は、新選組のほかは、会津藩の生き残り林又三郎(権助の子・この路上で戦死)以下数人であったという。
 歳三は、大坂へもどった。
敗走兵でごったがえしている大坂では、おどろくべき事実が待っていた。
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