いま千駄ケ谷で植木屋といえば、ほんの二、三軒、父祖何代かの店が残っているぐらいだというが、当時はこの界隈《かいわい》は植木屋が多い。
小旗本にならんで、五百坪、七百坪といった樹園がある。
沖田総司が養生している平五郎の樹園は内藤駿河守屋敷(現在新宿御苑)の南にあり、家の北側に水車が動いている。
沖田は、納屋に起居していた。
(おれは死ぬのか)
とは沖田は考えたこともなかった。よほど生命が明るくできているうまれつきなのかもしれない。
もう医者にはかかっていない。
ときどき旧幕府|典医頭《てんいのかみ》松本良順が若党や門人を寄越して薬をとどけてくれるが、それもだんだん遠のいていた。
おもに、歳三が置いて行った土方家の家伝薬「虚労散」というあやしげな結核治療薬ばかり服《の》んでいる。
「効《き》く」
歳三がいいきった薬である。歳三の口からそう断定されるとなにやら効きそうな気がして、良順の西洋医術による処方の薬をこっそり捨てることがあっても、これだけは服んでいた。
姉のお光が、三日にあげずきてくれては、介抱してくれた。
お光は、来るたびに獣肉屋《ももんじや》から買ってきた猪肉などを庭さきで煮てくれた。
「お汁も飲むのですよ」
と、つきっきりで総司が食べるのを見守っている。目をはなすと、捨てかねないのだ。
「くさいなあ」
と、沖田は呑みこむようにして咽喉に入れた。
獣肉はにが手だった。
「総司さん、きっと癒《なお》らなきゃいけませんよ。沖田の家は林《う》太郎《ち》が継いだといっても、血筋はあなたひとりなんですから」
「驚いたな」
総司は底ぬけの明るさで小首をかしげてしまう。
「なにがです」
お光もつい吊りこまれて微笑《わら》ってしまうのだ。
「なにがって、姉さんのその口ぶりがですよ、私の病気はそんな大そうなものじゃないと思うんだがな」
「そうですとも」
「あれだ」
総司は噴《ふ》きだして、
「姉さんは取り越し苦労ばかりしているくせに、ちょっとも理屈にあわない。たいした病気でないとわかっていたら、そんなにご心配なさることはありませんよ」
「そうでしょうか」
「癒ります。きっと」
ひとごとのようにいう。本気でそう思っているのかどうか、この若者の心の底だけはわかりにくい。
もう食欲はまったくないといってよかったし、無理をしてたべても消化が十分でない。
「腸にきている」
と、松本良順は、林太郎とお光にいった。
腸に来れば万に一つ癒る見込みはない。
大坂から江戸へもどる富士山丸のなかで、素人《しろうと》の近藤でさえ、
(総司は永くあるまい)
と歳三にいった。そのくせ富士山丸の中では冗談ばかりをいって笑い、「笑うとあとで咳が出るのでこまる」と自分でもてあましていた。
江戸に帰ってから近藤は、妻の|おつ《ヽヽ》ね《ヽ》(江戸開城後は、江戸府外中野村本郷成願寺に疎開)に、
——あんなに生死というものに悟りきったやつもめずらしい。
といったが、修行で得たわけではなく天性なのであろう。総司はこのとき二十五歳である。
総司が起居したこの千駄ケ谷池橋尻の植木屋平五郎方の納屋、といっても厳密には納屋ではなく、改造して畳建具なども入っていた。
明り障子は南面しているから日あたりはいい。
すこし気分がいいと障子をあけてぼんやり外をみている。
景色はよくない。むこう二十丁ばかりは百姓地で大根などが植わっている。
身のまわりの世話をしている老婆が、
「よくお倦《あ》きになりませんね」
とあきれるほど、ながい時間、おなじ姿勢でみている。
老婆は、この青年が、かつて京洛の浪士を慄えあがらせた新選組の沖田総司であるとは知らされていない。
「井上宗次郎」
という名にしてある。もし沖田だとわかれば、官軍がうるさい。総司は療養というより潜伏している、というほうが正確だった。
老婆も、身元は知っている。庄内藩士沖田林太郎の義弟、ということであった。
お光も老婆には、
——藩邸のお長屋ですと、病気が病気ですから、ひとにいやがられますので。
といってある。すじの通った話である。
ちなみに、お光の夫林太郎はいつかも触れたが、八王子千人同心井上松五郎家の出で、やはり近藤の父周斎の門人であり、天然理心流の免許を得、入り婿のかたちで沖田姓を継いだ。
沖田家の嫡子総司がまだ幼かったからである。
林太郎は、総司らが京へのぼったあと江戸で新徴組隊士となり、新徴組が幕府の手から離れたあと、いまは庄内藩に属し、藩邸のお長屋に住んでいる。男の子があり、芳次郎といった。その子が要《かなめ》、この家系がいま立川市に残っている。以上余談。
慶応四年二月下旬、庄内藩主酒井忠篤が江戸をひきはらって帰国した。
あとに家老が残り、江戸屋敷の処分や残務整理をしている。
沖田林太郎は残留組になったが、いずれは出羽庄内へ行かねばならないであろう。
その江戸引きあげのときが総司との生別の日になる、とお光はその日の来るのを怖れていた。
ついに来た。
四月であった。偶然三日である。この日、近藤は流山の官軍陣地にみずから行き、両刀を渡してしまっている。
お光はそういうことは知らない。この朝あわただしく駈けこんできて、
「総司さん、私どもは庄内へ行きます」
といった。
総司の微笑が、急に消えた。
が、すぐいつものこの若者の表情にもどり、
「そうですか」
と布団のなかから手をさしのばした。おそろしいほどに痩せていた。
お光は、その手をみた。
どういう意味だか、とっさにのみこめなかったのである。
総司は、姉にその手を握ってもらいたかったのだ。
が、お光は、動顛していた。
江戸に残る弟は、このさきどうなるのか。
お光は夢中になってそのあたりを片づけていた。手と体を動かしているだけである。
お金だけが頼りだと思い、林太郎に渡ったお手当のほとんどを総司のふとんの下に差し入れた。
「俄《にわ》かのことだったから」
と、お光は泣きながら、総司の身のまわりのものを大きな柳行李に詰めている。詰めてどうなるものでもないのに、その作業にだけ熱中した。総司が京都で使った菊一文字の佩刀《はいとう》もそのなかにおさめた。
総司はそういう姉を、枕の上からじっと見ている。
(刀まで納《しま》って、どういうつもりだろう)
姉のあわてぶりがおかしかったのか、顔は笑わず、肩だけをすぼめた。
お光には時間の余裕がないらしい。このまますぐ走って藩邸のお長屋にもどり、夫とともに出発しなければならない様子だった。
「総司さん、ここに下着や下帯のあたらしいのをかさねておきます。もうお洗濯はしてあげられないけど、肌身のものだけはいつもきれいにしておくのですよ」
「ええ」
総司は、少年のようにうなずいた。
「良人《うち》は、庄内に行くと戦さになるかもしれない、といっています」
「庄内藩の士風というのは剛毅なものだそうですね。国許の藩士は雨天でも傘を用いぬ、というのが自慢だというのは本当ですか。子供のころそんな話をきいたことがあるけど、それが本当ならずいぶん強情者ぞろいらしい」
お光は、話に乗って来ない。
「鶴岡のお城下では羽黒山から朝日が出るそうですよ。それがとてもきれいだと聞いています。しかし江戸からずいぶん遠いなあ。朝日というものはあんな北の国でも東から昇るのだと思うと、おかしくなる」
「まあ、このひとは」
お光は、やっと気持がほぐれたらしい。
「もう雪は解けているでしょうね。山なんぞにはまだ残っているかもしれない。いずれにしても姉さんの足では大変だな」
「総司さんはご自分の心配だけをしていればいいのです」
「良くなれば庄内へゆきますよ。西から薩長の兵が来れば、私ひとりで六十里越えの尾国峠《おぐにとうげ》でふせいでやります。そのときは、近藤さんと土方さんも連れてゆきますよ」
「ホホ……」
この弟と話していると、なんだかこちらまでおかしくなってしまう。
「近藤さんや土方さんはいまごろなにをしているかな。江戸のまわりは官軍で充満しているときいているけど、流山は大丈夫でしょうね」
「あのひとたちはお丈夫ですものね」
と、お光は妙なことをいった。
総司は笑った。
「そうなんだ。江戸にいたころの近藤さんは、到来物の鯛を食べて、骨まで炙《あぶ》って、こんなもの噛みくだくんだといって、みんな噛んで食べてしまいましたよ。あのときはおどろいたな」
「大きなお口ですからね」
お光も噴きだした。
「そうそう。あんな大きな口のひとは日本中にいないでしょう。京都で酒宴をしたときなど、土方さんはあれで案外、端唄《はうた》の一つもうたうんですよ。ところが近藤さんの芸ときたら、拳固《げんこ》を口のなかに入れたり出したりするだけで、それが芸なんです」
「まあ」
お光は、明るくなった。
「総司さんの芸は?」
「私は芸なし。——」
「お父さんゆずりですものね」
「遠いな」
と、総司は不意にいった。
「なにが?」
「お父さんの顔が。私は五つぐらいのときだったから、うっすらとしか覚えていない。ああいうものはどうなんでしょう」
「え?」
「死ねばむこうで会えるものかな」
「ばかね」
お光はこのとき、やっと総司がふとんの外に右手を出している意味がわかった。
「総司さん、風邪をひきますよ」
といいながら、そっと握り、ふとんの中に入れてやった。
「早く元気になるのよ。よくなってお嫁さんを貰わなければ」
総司は返事をしなかった。
枕の上で、ただ微笑《わら》っていた。京で、芸州藩邸のとなりの町医の娘に、淡い恋を覚えたことがある。ついに実《みの》らずにおわった。
(妙なものだな)
総司は、梁《はり》を見た。考えている。くだらぬことだ。
——死ねば。
と総司は考えている。
(たれが香華《こうげ》をあげてくれるのだろう)
妙に気になる。くだらぬことだ、とおもいつつ、そういうひとを残しておかなかった自分の人生が、ひどくはかないもののように思えてきた。
沖田総司は、それから一月あまりたった慶応四年五月三十日、看取《みと》られるひともなくこの納屋のなかで、死んだ。
死は、突如きたらしい。縁側に這い出ていた。
そのまま、突っぷせていた。菊一文字の佩刀を抱いていた。
沖田林太郎家につたわっている伝説では、いつも庭に来る黒い猫を斬ろうとしたのだという。
斬れずに、死んだ。
墓は、沖田家の菩提寺《ぼだいじ》である麻布桜田町浄土宗専称寺にある。戒名は、賢光院仁誉明道居士。永代祠堂料金五両。——のちに江戸にもどってきたお光と林太郎がおさめたものである。
のち墓石が朽《く》ちたため、昭和十三年、お光の孫沖田要氏の手で建てかえられ、おなじく永代祠堂金二百円。当時としては大金といっていい。
お光の沖田家の現在の当主は、東京都立川市羽衣町三ノ一六沖田勝芳氏である。そこに総司のみじかい生涯を文章にしたものが遺されている。たれが書いたものか。
沖田総司|房良《かねよし》、幼にして天然理心流近藤周助の門に入り剣を学ぶ。異色あり。十有二歳、奥州白川阿部藩指南番と剣を闘はせ、勝を制す。斯名《このな》、藩中に籍々《せきせき》たり。
総司、幼名宗次郎春政、後に房良とあらたむ。文久三年新選組の成るや、年僅かに二十歳にして新選組副長助勤筆頭。一番隊組長となる。大いに活躍するところあり。
然りといへども天籍、寿を以てせず。惜しいかな、慶応四年戊辰五月三十日、病歿す。(原文は漢文)
総司、幼名宗次郎春政、後に房良とあらたむ。文久三年新選組の成るや、年僅かに二十歳にして新選組副長助勤筆頭。一番隊組長となる。大いに活躍するところあり。
然りといへども天籍、寿を以てせず。惜しいかな、慶応四年戊辰五月三十日、病歿す。(原文は漢文)
総司の死の前月二十五日に、近藤は板橋で斬首された。
当時なお、総司は病床にある。しかしこの報は、千駄ケ谷の東のはずれでひとり病いを養っている総司の耳につたわらず、息をひきとるまで近藤は健在だと信じていた。
当時なお、総司は病床にある。しかしこの報は、千駄ケ谷の東のはずれでひとり病いを養っている総司の耳につたわらず、息をひきとるまで近藤は健在だと信じていた。
歳三が、風のたよりに近藤の死を知ったときは、すでに宇都宮城をすて、日光東照宮に拠って、江戸の官軍をおびやかしていたときであった。
その後、各地に転戦し、次第に兵はふくれあがり、その後、会津若松城下に入ったときには、歳三の下にすでに千余人という人数になっていた。
歳三はこれを、
「新選隊」
と名づけた。
当時すでに兵の集団を|組《ヽ》ではなく|隊《ヽ》と名づける習慣が一般化していたのだ。
副長は、新選組結成いらいの奇蹟的な生き残りである元副長助勤三番隊組長斎藤一であった。
剣の精妙さは京都のころから鬼斎藤といわれ、京都時代はおそらく三十人は斬ったであろう。
が、かすり傷一つ負わなかった。のちに東京高等師範学校をはじめ、諸学校に剣術を教えに行ったことがあるが、三段、四段の連中がむらがって掛ってきても、籠手一つかすらせなかった。
老いて、南多摩郡|由木《ゆき》村中野の小学校教員になった。
京都時代は強いばかりでさほど味のある人物でもなかったが、各地に転戦を重ねてゆくうち、どういうわけか、だんだん性格が剽軽《ひようきん》になってきて、ある日、
「隊長、私は雅号をつけた。きょうからはその号で呼んでいただけないか」
といった。なんだ、ときくと、
「諾斎《だくさい》です」
笑っている。若いくせに隠居のような名である。
歳三も噴きだして理由をきくと、
「なんでもあんたのいうことをきく。だから諾斎」
といった。
この号は、死ぬまで用いている。
この斎藤のほか、副長格に、歳三の遠い親戚にあたる武州南多摩郡出身の旧隊士松本捨助を選んだ。佐藤彦五郎に付いて天然理心流を学んだ目録持ちで、才気はないが、弾丸雨注のなかでも顔色一つ変えず真先《まつさき》に斬りこんでゆく。官軍の群れのなかにとびこむと、
「新選組松本捨助」
とかならず名乗った。
そんなことで、この男の名は官軍の間にまで知られていた。
その後、各地に転戦し、次第に兵はふくれあがり、その後、会津若松城下に入ったときには、歳三の下にすでに千余人という人数になっていた。
歳三はこれを、
「新選隊」
と名づけた。
当時すでに兵の集団を|組《ヽ》ではなく|隊《ヽ》と名づける習慣が一般化していたのだ。
副長は、新選組結成いらいの奇蹟的な生き残りである元副長助勤三番隊組長斎藤一であった。
剣の精妙さは京都のころから鬼斎藤といわれ、京都時代はおそらく三十人は斬ったであろう。
が、かすり傷一つ負わなかった。のちに東京高等師範学校をはじめ、諸学校に剣術を教えに行ったことがあるが、三段、四段の連中がむらがって掛ってきても、籠手一つかすらせなかった。
老いて、南多摩郡|由木《ゆき》村中野の小学校教員になった。
京都時代は強いばかりでさほど味のある人物でもなかったが、各地に転戦を重ねてゆくうち、どういうわけか、だんだん性格が剽軽《ひようきん》になってきて、ある日、
「隊長、私は雅号をつけた。きょうからはその号で呼んでいただけないか」
といった。なんだ、ときくと、
「諾斎《だくさい》です」
笑っている。若いくせに隠居のような名である。
歳三も噴きだして理由をきくと、
「なんでもあんたのいうことをきく。だから諾斎」
といった。
この号は、死ぬまで用いている。
この斎藤のほか、副長格に、歳三の遠い親戚にあたる武州南多摩郡出身の旧隊士松本捨助を選んだ。佐藤彦五郎に付いて天然理心流を学んだ目録持ちで、才気はないが、弾丸雨注のなかでも顔色一つ変えず真先《まつさき》に斬りこんでゆく。官軍の群れのなかにとびこむと、
「新選組松本捨助」
とかならず名乗った。
そんなことで、この男の名は官軍の間にまで知られていた。