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燃えよ剣59

时间: 2020-05-26    进入日语论坛
核心提示:陸軍奉行並この時期から、土方歳三という名が、戊辰戦役史上、大きな存在としてうかびあがってくる。かれは庄内藩へ走って藩主を
(单词翻译:双击或拖选)
陸軍奉行並

この時期から、土方歳三という名が、戊辰戦役史上、大きな存在としてうかびあがってくる。
かれは庄内藩へ走って藩主を説得し、また会津若松の籠城戦に戦い、さらに奥州最大の雄藩仙台藩の帰趨《きすう》が戦局のわかれ目とみてその態度決定をうながすため、仙台城下|国分町《こくぶんちよう》の「外人屋」に入り、麾下《きか》二千の兵を城下の宿所々々に駐留させ、青葉城内での藩論決定を武力を背景にせまった。
東北の秋は早い。
仙台城下の寺町や武家屋敷町の落葉樹が、もう黄ばみはじめている。
この間、近藤の板橋での刑死については、会津若松での戦闘中に官軍捕虜から詳報をきき、若松の愛宕山の中腹をえらんで、墓碑をたて、
貫天院殿純義誠忠大居士
という戒名をきざんだ。
仙台城下に入ってからも、二十五日の命日には終日、魚肉を避けて冥福をいのった。
そうしているうちにも、江戸脱走、関東転戦の反薩長有志が、ぞくぞくと仙台城下にあつまり、歳三の指揮を仰いだ。
歳三はしばしば青葉城に登城し、藩主|陸奥守慶邦《むつのかみよしくに》およびその家臣に説いた。
「奥州は日本の六分の一でござる」
というのである。
「しかも奥州各藩の兵を合すれば五万であり、兵馬|強悍《きようかん》、西国にまさっている。この地に拠って天下を二分し、しかるのちに薩長の非を鳴らし、きかざればその暴を討つ。伊達家の御武勇は藩祖の貞山公(政宗)以来、天下にひびいたものでござれば、ぜひ奥州同盟の盟主として正義を天下に示されたい」
歳三は、いわば旧幕府の代表者として談じこんでいる。その背景にはおびただしい脱走陸兵がいるから、この男の一言一句は、仙台藩をゆるがすに十分だった。
このころ、仙台藩主伊達慶邦は、みずからの佩刀の下げ緒を解き、歳三に与えている。水色|組糸《くみいと》の下げ緒で、現在、日野市佐藤家所蔵。
 一方、旧幕府海軍副総裁榎本和泉守|武揚《たけあき》が、八月十九日夜、旧幕府艦隊をひきいて、品川沖を脱走し、北上しはじめた。
開陽丸を旗艦とし、回天丸、蟠竜丸《ばんりゆうまる》、千代田形丸の四艦に、神速丸、長鯨丸、美嘉保丸、咸臨丸《かんりんまる》の輸送船をともなう日本最大の艦隊で、官軍は海軍力においてはとうていこれに及ばない。
この榎本艦隊には江戸脱走の旧幕兵をも載せ、さらに旧幕府陸軍のフランス人教官である砲兵士官ブリュネー、砲兵下士官フォルタン、歩兵下士官ブュフィエー、同カズヌーフなども同乗させていた。
途中、風浪のために四散し、美嘉保、咸臨の二艦を喪《うしな》ったが、艦隊としての実力にはさほどひびかない。
これらが仙台藩領|寒風沢港《さぶさわこう》、東名浜にぞくぞく集結してきたのは、八月二十四日から九月十八日にかけてである。
旗艦開陽丸は、八月二十六日に入港し、同日榎本は幕僚、陸戦隊をひきいて威武をととのえて上陸した。
榎本は、土方歳三、大鳥圭介らが国分町に旧幕軍本部を置いているときき、ひとまずそこで海陸両軍の協議をとげることにした。
途中、榎本は、
「荒井君」
と、開陽丸指揮官荒井|郁之助《いくのすけ》にきいた。
「大鳥はよく知っているが、土方歳三というのはどういう男だ」
「江戸で会ったことがあります。沈着剛毅といった男で、大軍の指揮ができる点では、あるいは大鳥以上でしょうな」
荒井郁之助は榎本とおなじく旧旗本の出身で、幕府の長崎海軍伝習所に学び、江戸築地小田原町の海軍操練所頭取、幕船順動丸船長などを経た根っからの海軍育ちだが、のち歩兵頭をつとめたこともある。
その気象学の知識をかわれて、維新後、初代中央気象台長になったという風変りな後半生をもつにいたった。要するに、オランダ留学までした榎本を筆頭に、荒井、大鳥などは、旧幕府きっての洋学派といえるだろう。
が、いまから対面する旧新選組副長土方歳三という人物の見当がつかない。というより、どこか、違和感があった。
国分町宿館についてみると、歳三は、城南大年寺に兵を集めてたむろする仙台藩主戦論者富小五郎を訪ねて不在だった。
宿館で、歳三の評判をきくと非常な人気で、大鳥のことはたれもあまりよくいわない。
学者かもしれないが臆病者だ、といいきる者もある。
やがて、歳三がもどってきた。
「私は榎本|釜次郎《かまじろう》です」
と武揚はいった。
「申しおくれました。土方歳三です」
にこにこ笑った。この不愛想な男が、初対面の榎本に相好《そうごう》をくずしたのは、よほどのことである。
仙台城下では旧幕軍艦隊の入港というので沸きたっているのである。嘉永六年ペリー提督のひきいる米国東洋艦隊がきて日本中に衝動をあたえたが、それとおなじ実力の艦隊が、いま領内に入っているのだ。
たとえば旗艦開陽丸は排水量三千トン、四百馬力、オランダ製新造艦であり、これにつぐ回天丸は千六百八十七トンで、この二艦の備砲射撃をするだけでも仙台藩の沿岸砲は一時間で沈黙するだろう。
それに江戸から千数百人の陸兵を輸送してきている。
「榎本さん、仙台藩の藩論はなお和戦両論にわかれて動揺していますが、これで百万言の説得よりも効があるでしょう」
「土方さん、あなたは旧幕府きっての歴戦の人です。頼みます」
と、榎本は、西洋人のように歳三の手をにぎった。
その夜、軍議がひらかれ、それぞれの役割りがきまった。
歳三は、この日から陸軍部隊を統轄する陸軍奉行並に就任し、陣地の部署割りもきまった。
本陣を、日和《ひより》山《やま》に据えた。
現在《いま》の石巻市(仙台湾北岸)の西南にあるひくい砂丘で、南北朝時代、奥州第一の豪族であった|葛★[#新潮文庫六十九刷では葛のヒが人]西《かさい》氏の城跡である。
丘は低いが海陸の眺望がよくきき、東は北上川をへだてて牧山に対している。
歳三はこの日和山のふもとの鹿島明神を宿舎とし、松島、塩釜までのあいだ海岸十里にわたって布陣した。
これには、榎本もおどろいた。
「土方さん、兵を仙台の城下に集中させておくほうがいいでしょう。なぜ、長大な海岸線に分駐させてしまうのです」
「いや」
と、歳三に好意をもつ旧歩兵頭、現陸軍奉行の松平太郎が、
「仏式演習をして、青葉城(仙台城)の軟論派の気勢をくじくのです。演習後、すぐ城下に集結させます」
といった。
この演習には、仙台藩星|恂太郎《じゆんたろう》の指揮する洋式歩兵隊も加わり、総数三千余が、紅白にわかれ、完全仏式による大規模な模擬戦闘を行なった。
むろん、演習計画の立案、作戦、戦闘行動については仏人顧問団が指揮している。
歳三は、松平、大鳥とともにこの演習の総監であったが、この男の独特のカンのよさは、フランス式用兵をこの大演習で完全にのみこんだことである。
砲兵教官ブリュネーが驚き、
「土方さん。フランス皇帝があなたを師団長に欲しがるでしょう」
と真顔でいったほどであった。

九月三日、仙台藩では、城内応接所に旧幕軍首脳をまねき、仙台藩代表とともに、官軍来襲の場合を想定して、作戦会議をひらいている。
ところがその後十日もたたぬうちに、藩論が軟化し、ついに九月十三日官軍への帰順を決定、藩の要路から主戦派の重役がいっせいにしりぞけられた。
この報を城下国分町の宿舎できいた榎本は大いにおどろき、
「土方さん、同行してください」
と、二人で登城し、あらたに藩の主導権をにぎった執政遠藤文七郎に対面した。
遠藤は、仙台藩の名門で、代々栗原郡川口千八百石を知行地とし、すでに安政元年に藩の執政になったが、性格がはげしすぎるために藩の要路とあわず、その後、京都に駐在した。
この間西国諸藩の志士とまじわり、帰国後激越な勤王論を唱え、そのため佐幕派から罪におとされ、以後知行地にひっこんでいた。
藩が帰順にかたむくや、にわかに起用されて執政に再任したのである。
遠藤は、京にあって薩長土の志士とまじわっていたころ、新選組の勢威というものを眼のあたりに見、憎みもしていた。
その土方が、眼の前にいるのだ。
しかも、薩長の非を鳴らし、主戦を説いている。
遠藤としては、
(なにをこの新選賊)
と、笑止であった。
歳三も、説きながら、この新執政の顔をどこかで見たような気がしてならない。
(ひょっとすると京で、市中巡察中に見たのではないか)
記憶力のいい男だから、そう思うと、出あったときの情況までありありと眼にうかんできた。
冬、烏丸《からすま》通を南下してきたとき、四条通でこの男と、その連れ四、五人に会っている。
当時は、新選組の巡察とみれば大藩の士でも道を他にそらせ、浪士などは露地へかくれ散ったものだが、あのときもそうだった。
——土方がきた。
と、たしか、遠藤の連れがいった。|まげ《ヽヽ》からみて、土州浪士だろう。
うるさいとみて、みな、散ってしまった。
遠藤だけが残った。大藩の重臣だから、ふところ手をして傲然《ごうぜん》と立っている。
歳三が、尋問をした。
「伊達陸奥守家中遠藤文七郎」
と、相手はいった。
ふところ手をしたままである。
「われわれは御用によってたずねている。懐ろから手を出されたい」
と、いうと遠藤は鼻で笑い、
「この手を出させたいなら、われらが主人陸奥守にまで掛けあわれたい。拙者は不肖といえども、伊達家の世臣だ。陸奥守以外の者から命を受けたことがない」
と、堂々たる態度でいった。
——こいつ。
と、永倉新八が剣を半ばまで鞘走らせたが歳三はとめた。
「ごもっともなことだ」
と、隊士一同を去らせ、自分だけが残って遠藤にいった。
「どうやら喧嘩を売られたと気づいた。買いますからお抜きなさい」
両者の間、五歩。
遠藤も、抜くつもりだったらしく、左手をあげて、刀の鯉口を切った。
そのときどうしたことか、寒の雀が一羽、二人のあいだに舞いおりた。
(町雀だけに、物おじせぬ)
と、歳三は、ふと俳趣を感じた。このあたり、下手な俳句をたのしむ豊玉宗匠の癖が出た。
遠藤が踏み出した。
雀がぱっと飛びたった。
「馬鹿、雀が逃げた」
と、歳三がいった。
そのとき遠藤が大きく跳躍して真向から抜き打ちを仕掛けてきた。
歳三は、身を沈めた。右手から剣が弧をえがいて空を斫《き》り、遠藤の遅鈍な抜き打ちを鍔元《つばもと》から叩いた。
「生兵法《なまびようほう》はよすがいい」
遠藤の刀が、地上に落ちている。
「爾今、藩の身分を鼻にかけた空威張りもよすがよかろう。いまの京では通用せぬ。われわれは市中の取締りに任じている。伊達家の大身ならば御理解あって然るべきところだ」
云いすてて歳三は南へ立ち去った。
おもえば、あのころが、花であったかもしれぬ。
その歳三が、脱走幕軍の陸軍奉行並として仏式軍服を着て、遠藤に対坐している。
(あの土方が)
遠藤の眼に、軽蔑と憎しみがある。
榎本武揚は、説いた。
この男は、日本人にめずらしくヨーロッパを見てきた男である。
説くところ、世界の情勢から説き、薩長が幼帝を擁して権をほしいままにし、日本国を誤ろうとしている、という論旨で押してきた。
歳三はちがう。
どうも口下手で、榎本の言説のような世界観がない。仙台戊辰関係の資料では、歳三はこう云ったことになっている。
「仙台藩にとって、官軍に帰順するが利か、戦うが利か、そういう利害論は別だ」
というのである。
「弟をもって兄を討ち(弟とは、紀州、尾州、越前といった御三家御家門をさすのだろう。兄とは徳川家らしい)、臣(薩長)をもって君(徳川家)を征す。人倫地に堕《お》ち、綱常まったく廃す」
という革命期には通用せぬ旧秩序の道徳をもって薩長の非を鳴らし、
「このような彼等に天下の大政を秉《と》らしめてよいはずがない。いやしくも武士の道を解し聖人の教えを知る者は、断じてかれら薩長の徒に味方《くみ》すべきでない。貴藩の見るところ、果して如何」
残念ながら歳三は所詮は喧嘩屋で、大藩の閣老に説くにはどうも言説がお粗末で、ひらたくいえば、清水次郎長、国定忠治が云いそうなことと、あまり大差がない。
やはりこの男は戦場に置くべきで、こういう晴舞台にはむかないようである。
ただ、歳三の随臣格として登城し、別室にひかえていた京都以来の隊士斎藤一と松本捨助は感心してしまい、のちに日野の佐藤家を訪ねてこのときの模様を、
——いやもう大したものでした。挙措重厚、じゅんじゅんと陳述するところ、大大名の家老格といったところで、自然に備わる威儀|風采《ふうさい》には実に感じ入ったものでした。
と語っている。斎藤や松本といった古いなかまの眼からみれば、武州南多摩郡石田村の百姓の喧嘩息子が、剣一本だけの素養で、とにかく仙台六十二万五千石の帰趨《きすう》決定を、青葉城内の大広間で論じただけでもたいしたものだと思ったのであろう。
が、歳三の出る幕ではなかった。
その直後、仙台藩執政遠藤文七郎が、同役の大条《おおえだ》孫三郎に、
「榎本はさすがな男だ」
と、その学才、政治感覚に感心したが、歳三については、ひどい評を下している。
「土方に至りては、斗★[#たけかんむり+肖]《としよう》(小さなマス。一斗程度しか入らない)の小人、論ずるに足らず」
遠藤は、藩内勤王派の首領であり、歳三には恨みもある。だからこうも酷評したのだろうが、まずまず、こういうところであろう。
このあと宿舎に帰ってから歳三が、松平太郎に、
「ひどい役目だった」
と、汗をぬぐいながら閉口し、
「私はやはり大広間にむかぬ。弾《たま》の雨、剣の林といったようなところがいい」
といった。
それをそばできいていた大鳥圭介が、
「相手がわるい。遠藤という男は私も知っている。江戸に遊学していたころ昌平黌でも秀才で通った男だった」
と、歳三を冷笑するようにいった。
昌平黌とはいうまでもなく幕府の官設による最高の学問所で、こんにちの東京大学の前身である。
大鳥にすれば暗に無学な百姓あがりの剣客の歳三をからかったつもりだろう。
やがて仙台藩は、官軍に帰順した。
榎本艦隊は、仙台藩領を去って、風浪のなかを北海道であたらしい天地をひらくべく航海を開始した。
歳三、旗艦開陽丸にある。
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