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ムッソリーニの処刑15

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:ムッソリーニの涙 チアーノら五人の銃殺刑執行は、その夜のラジオで繰り返し詳細に報じられた。そのニュースに続いて、きまって
(单词翻译:双击或拖选)
 
ムッソリーニの涙
 
 チアーノら五人の銃殺刑執行は、その夜のラジオで繰り返し詳細に報じられた。そのニュースに続いて、きまって党歌「ジォヴィネッツァ」が奏でられた。
十一日付北イタリアの新聞はすべて、第一面をはじめ、数ページを使って判決内容を伝え、十二日付では処刑の状況を詳しく報じた。ラ・スタンパ紙は「斧は振り下された。二十年も長い間、彼らは忘恩と裏切りを重ねた。免赦などはもってのほかである。ヴェローナの死刑囚は、国民が財力と血で築き上げた大偉業を破壊した罪を、身をもって償ったに過ぎない」と書いた。
ファシスト共和国とドイツ軍支配下の新聞は、いずれも同じような論調の記事であった。国民と反ファシストへの警告とみせしめのためであることは言うまでもない。
 それから数日後、ドン・キォット師はガルニャーノのムッソリーニに招かれた。ヴェローナからは車で数十分の距離である。
二人はムッソリーニの書斎で長時間、話し合った。師によると会話はおよそ次のようであった(注1)。
ムッソリーニ「師は執行前夜、死刑囚達といろいろお話しされたそうだが……」
師「はい、皆さんとあれこれ話し合いました。それにしても判決は閣下の御希望通りでした」
ム「何だって? 裁判は公正なものだった」
師「いや、閣下の御同意なしには判決を下せる裁判官などいるはずがありません。でもファシズムに反逆するのと、イタリアに反逆するのとは違います。国民はそのことを前から別のものであることを知っています」
神に仕える者として、また大司教という高位の神父として、ドン・キォット師はずけずけとモノを言った。ムッソリーニはこれを聞くと、両手で頭をかかえた。しばらく考え込んでから、もっとも聞きたがっていることを尋ねてきた。
ム「で、最後の夜、皆はどんなことを言っていた?」
皆、というよりムッソリーニはチアーノを念頭に置いているはずであった。
師「皆さん、神に近づいていました。でもチアーノは特赦願いを書くよう勧めても、それはヒットラーや閣下を喜ばすだけと、はじめは拒否していました。しかしほかの人が説得して、最後には書きました。
ただ、特赦されなかったことではじめは閣下を皆がのろっていましたが、夜が更けるにつれて、心が変っていったのです。人間は皆、同じ風で運び去られるのだとも言っていました。そしてチアーノは、誰も恨まずに死んで行ったと家族に伝えてくれと言っていました」
それを聞いたムッソリーニは、師の話をさえぎって、震えるような声で聞き返した。
ム「そうか? 本当にそう言ったのか?」
師「そうです。間違いありません。誰も恨まないと、必ずそう伝えてくれと——」
ムッソリーニは師の顔をマジマジと見つめて、再び両手で顔を覆うと声を押えて泣き伏した。やがて顔を上げると、涙も拭わずに師の両手を握った。
ムッソリーニは十日の夜、助命嘆願書が届くのではないかと、一晩中待ち続けていたのだという。彼の十年来の愛人クラレッタ・ペタッチが一時間おきにムッソリーニの執務室に電話し、「ガレアッツォはきっと書いてくるわ」と、勇気づけていたとのことであった。ムッソリーニは「でもこのことは大司教、どうか他言しないで下さい」と念を押した。そして最後に言った。
「大司教……。どうぞガレアッツォと私のために祈って下さい」
 当時のムッソリーニの気持を、あれから四十年経った八四年一月、長男のヴィットリオが初めて、イタリアの著名なジャーナリスト、ジュゼッペ・マイダに次のように明かしている(注2)。
「ガレアッツォの処刑は、狂信者達が父につきつけた挑戦だったのです。父に赦免してやるよう勧めた者は、唯一人もいなかった。それを父は待っていたのに……。ガレアッツォを助けようと渾身の力で立ち向ったのは、エッダを除いてはいなかった。ガレアッツォが処刑された時、父は『これでわが家庭も終った。いまは俺の死が始まっているよ』と言っていた」
ジュゼッペ・マイダは同時に、次の二つの事実も発表している。
「四三年十二月三十日、北イタリアのドイツ大使ラーンはベルリンの外相リッペントロップにこう電話している。『ヴェローナでの裁判はすべて党書記長のパヴォリーニにまかされている。パヴォリーニから本使(ラーン)に伝えられているところによると、裁判は年明けの一月八日から十日までで、死刑判決後即時処刑の手筈とのことである』」
「チアーノの実母カロリーナ・ピーニは戦後亡くなったが、彼女は次のような手記を書き残している。『息子の処刑は、パヴォリーニ、内務次官のグイド・ブッファリーニ=グイディ、ヴェローナ市長のコスミン三人によって前もって決められていた。だからこの三人は助命嘆願書を握りつぶしたのです』と」
 ローマのファシズム研究者の間では、当時パヴォリーニが病身のムッソリーニの後継者になろうとしていたとの説をとる人が少くない。パヴォリーニが裁判を演出し、すべてはムッソリーニの手の届かぬところで進行したことでもそれはうかがえるが、ここで紹介したヴィットリオ、チアーノの母親の話もそれを裏付ける材料である。
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