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ムッソリーニの処刑16

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:ドイツ軍、ローマから撤退 四三年末から四四年年頭にかけては、例年にない厳冬であった。中、北部は豪雪、大雨に見舞われ、戦線
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ドイツ軍、ローマから撤退
 
 四三年末から四四年年頭にかけては、例年にない厳冬であった。中、北部は豪雪、大雨に見舞われ、戦線はナポリ—ローマ間で膠着状態に陥っていた。サレルノ上陸のアメリカ軍はナポリ北方まで進出したものの、ドイツ軍の必死の防戦により、苦戦の連続であった。このため年明けの一月末、新たな連合軍がローマ南方アンツィオに上陸、サレルノ上陸軍の北進を阻止しているドイツ軍の背後を衝き、戦局の打開をはかった。
三月に入ると、連合軍はローマ空爆を激化させた。四月に雨期が終ると、戦局はようやく動き出した。ローマとナポリの中間にあるモンテ・カッシーノ攻防戦で、山容が一変する大激戦の末、五月十七日に連合軍が占領、サレルノ上陸軍とアンツィオ上陸軍とがここで合流した。あとは一挙にローマを目指すだけとなる。六月一日にはムッソリーニの干拓事業で知られるローマ郊外テラチーナ近くに進出した。
ドイツ軍はローマ南郊アルバーノの丘陵地帯で迎撃態勢を敷いた。ローマ郊外のドイツ軍陣地からは連日、長距離砲がズシン、ズシンと地響きを立てた。市民達は誰もが連合軍の到着が間近に迫っていることを身をもって感じ取ったが、そこには解放への期待と、街が連合軍とドイツ軍の戦場と化するのではないかという不安と恐怖とが交錯していた。食糧は底をつき、街は事実上、無政府状態となっていた。
二日午前、連合軍機が低空飛行し、ローマ市内各所に大量のビラを投下した。ビラには次のように印刷してあった。
「ローマ市民へ。連合軍は近日中にローマに入る。ドイツ軍を捕捉殲滅するため、市民は協力せよ!」
市民の協力を求める檄であったが、多くの市民はこれを見て、かえって家の中に閉じ籠った。市街戦に巻き込まれるのを恐れてである。しかし家々の鎧戸は閉めても、人々はその隙間から息をひそめて往還の様子をうかがった。フラミニア街ではその日、ドイツ機甲部隊の一部が北に向っているのが見られた。
実はその頃、ローマ市内外のドイツ軍は少しずつ北への撤退を開始していたのである。戦後に明らかになったことだが、ヒットラーはケッセルリンクにローマ防衛を命令し、もし離脱する場合はテヴェレ川に架かる橋をすべて爆破すべしと訓令していた。しかしヴァチカン筋はドイツ軍に対し、市街戦を断固回避するよう説得し、ケッセルリンクも戦力を保持して中部イタリアでの防衛線構築が得策だと考えていた。このことはドイツ大本営が前線の状況を把握できなくなっていた一つの兆候であった。
その二日正午、ローマ法王ピオ十二世は聖名祝日(法王と同名の聖人の日)を機に、全世界に向けて放送し、「ローマに対し手を上げる者は何人であれ、文明と神の裁きにおいて、母親を弑(しい)する者と同罪である」と述べた。言うまでもなく、これは連合軍、ドイツ軍双方に対し、“永遠の都”ローマを戦場とさせないための警告であった。
 その頃、アルバーノの街々は相次いで連合軍の手に落ちていた。連合軍の情報機関は刻々、ローマ市内の反ファシスト地下組織と無線で直接連絡を保っていた。ナチ親衛隊の手によりアルデアティーネで殺されたモンテゼーモロ大佐が作り上げた情報連絡網である。
ローマを取り巻く情況は刻一刻、急変してきた。連合軍がドイツ軍に向けた砲声は、南からだけでなく東のティヴォリ、西のオスティア方向からも轟いていた。ケッセルリンクはヒットラーに電報した。「ローマは文明の都市であり、戦場にはできない」と。さすがであった。彼は独断で撤退を決め、一部を北に撤退させ、南方軍にも撤退を指示した。
三日未明、このローマ南郊に布陣した南方軍も続々と市内に流れ込んで来た。同時にヴェネツィア広場、エセドラ広場、ポポロ広場などに集結した市内のドイツ軍装甲車、戦車、砲兵隊などが北に走るフラミニア、カッシア両街道に殺到した。ドイツ軍の敗走が始まったのである。
北に歩くドイツ兵は自転車を盗み、家々の門を壊しては強盗さながら金品を奪い取った。当時の目撃者の話では、戦車や装甲車の砲門は道の両側の家並みに向けられていたと言う。ドイツ兵の略奪に抵抗するローマ市民を威圧し、射殺するためであった。
ローマ南郊から入ってきたドイツ軍部隊も、そのまま市内を通過して北へ北へと向った。ブラッチャーノ湖を水源とする市内北部の噴水が水を噴き上げているのを見ると、ドイツ兵達はわれ先に顔を洗い、頭からかぶり、水筒を一杯にしてさらに北へと歩いて行った。
そうした情景を街頭で見ていた者は殺されないまでも財布や時計など、金目のものは容赦なく強奪された。このため市民達は皆、じっと家の中で息をひそめ、歴史の舞台が回るのを見ていたのである。
ドイツ軍首脳部も、撤退状況を見守りながら、三日の午後遅くなってそれぞれの司令部をあとにした。ゲシュタポ隊長カプラー中佐は、タッソー街に拘留していた十三人のイタリア人反ファシストを伴って北に向った。ファシストの多くも同行した。ローマ警察署長カルーソ、拷問専門家コッホらもいた。しかしローマをあとにして数キロのラ・ストルタあたりまで来て、反ファシストを連れて歩くのは足手まといだと、十三人をトラックから降ろすと全員射殺した。その中にはイタリア陸軍の著名な軍人ドーディ将軍や戦後ローマ市内の町名に命名された労組指導者ブルーノ・ブオツィもいた。
四日もドイツ軍の残存部隊と、ファシスト達が続々とローマをあとにしていた。二百六十余日ローマに君臨していたドイツ軍の敗走である。「ドイツもまた敗れたり」をローマ市民は複雑な想いで眺めていた。
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