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ムッソリーニの処刑17

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:永遠の都ついに解放! 四四年六月四日、ローマは歴史的な日を迎える。その日、空は晴れて春から夏に移った燦(きら)めく陽光が
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“永遠の都”ついに解放!
 
 四四年六月四日、ローマは歴史的な日を迎える。その日、空は晴れて春から夏に移った燦(きら)めく陽光が、“永遠の都”をまぶしく彩っていた。パラティーノの丘やカンピドリオの丘の古代遺跡には、夾竹桃が戦争などどこ吹く風と思わせるかのように、桃、白、緋と色とりどりに華やいで咲き始めていた。
その日は日曜日であった。ドイツ軍占領下でも、信仰心篤い市民の多くはたとえ空腹であっても、ドイツ軍を無視して晴着を着て地元の教会のミサに行くのが常であった。だがこの日に限っては、ひっそりと家に籠り、ドイツ軍の撤退をさまざまな感慨をこめて眺めていた。敗走のドイツ兵に何をされるか分らないという警戒心からである。ただ少数の人だけが、ドイツ兵の目をかすめては教会に走った。それらの人々は反ファシストの政治家達であったり、パルティザン達であったりした。連合軍のローマ入城とローマ解放の準備を密議するためであった。
ローマ南地区にあるサン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の一隅には、ボノミ、デ・ガスペリ、ネンニら国民解放委員会の錚々たる面々がいたはずと、デ・ガスペリの弟子で後にキリスト教民主党首脳になったジュリオ・アンドレオッティは回想している。
当時、連合軍は古代ローマ軍団が往来したアッピア街道を一路北上しており、先遣隊は真っ先にサン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ門を通って市内に入るだろうと、国民解放委員会は、連合軍情報部から連絡を得ていたという。この国民解放委員会と連合国側との連係が正確かつ緊密に行われていたことは、ネンニの次の発言によっても十分うかがえる(注1)。
「もっとも緊張したのは六月三日の晩であった。その夜十一時十五分に、ロンドンとニューヨーク短波放送が『ELEFANTE(象)』の暗号を放送したのだ。これは事前の連絡で、連合軍は二十四時間以内にローマに入るということを意味していた。その三日夜から四日にかけて、われわれは一睡もせずに希望に燃えていた。むしろ断末魔のナチ・ファシスト達が市民にテロをかけないかと心配していた」
 果して、その四日午後四時頃になって、連合軍戦車隊がローマ新市街のEUR(ローマ万博会場予定地)地区に姿を現わしたとの噂がパッと都心にまで広がった。男達は街頭に繰り出し、女性や子供はアパートメントのバルコニーに立って様子をうかがった。事実、ドイツ軍がローマを放棄して撤退中と知った連合軍のアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリア、チェコスロヴァキアその他の各国軍は、先を争って「ローマ一番乗り」を競い合っていたのである。
それを迎えようとするローマ市民達は、ドイツ軍が去ったと見るや、ドイツ軍が張りめぐらしていったバリケード、鉄条網、その他の障害物の撤去に取りかかった。連合軍がスムーズに市内に進出し、ドイツ軍追撃が容易になるためである。これには市内のパルティザン達が公然と姿を見せて指揮した。市民達はそれらパルティザンを仰ぎ見るまなざしで見て、指示に従っていた。
 午後六時過ぎ、市民達はアッピア街道の方角から聞えて来る轟音に気付いた。と、思う間もなく見なれていたドイツ軍とは違った流線型の鉄帽をかぶったアメリカ兵のジープが、サン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ門をくぐってくるのを見た。後から後からジープや装甲車それに戦車も続いて入って来た。アメリカ第五軍、第八軍のローマ一番乗りであった。
大聖堂前にいた五、六十人の市民は思わず叫んだ。家の中から人々も飛び出した。
「あっ、来た! アメリカーニだ!」
「ベンベヌート! アメリカーニ!(よく来てくれた! アメリカ兵よ!)」
あとはもう声にならなかった。駆けつけた市民の群はみるみるふくれ上がった。ジープなどは群衆の中で立往生した。両手を天にひろげて感激する市民、嬉し泣きに泣く市民……。
その情景を見ていたローマのイル・テンポ紙記者エンリコ・マッティはその夜、翌日の新聞のため、次のように記事を書き出した。
「来た! 来たぞ! 連合軍がとうとう来た。終った! 終ったのだ。戦争は終った。あの布告と弾圧ばかりのドイツ軍はもういない。市民はそれは当然だと思っている。二十二年間のファシズムとその後の八ヵ月余りのナチス支配は終った。それを喜ぶ市民は多い。それを残念がる市民もいるはずである。彼らには錯乱の時である。
だがスペイン広場に、テヴェレの川岸に、サン・ピエトロ広場に、アメリカ軍が歓迎の人波の中を入って来た。アメリカ兵に抱きつく人、口づけをおくる人、ブドウ酒を差し出す人……。
戦場で死と直面して来た緊張が解けたせいか、アメリカ軍にはきょとんとした表情の兵隊が多い。彼らはジープから戦車の上からローマ市民達にチョコレートと、“少々の自由、解放感”を与えた。この日から、われわれの明日が始ったのだ」
 アメリカ軍がローマに入って来たこの瞬間は、記録によると六月四日午後六時二十分であった。この時刻、敗走するドイツ軍の最後尾はまだ市内にいて、逃げまどう兵隊もいた。だが編成を組んだ 殿 (しんがり)部隊は、市内の北にあるミルヴィオ橋を渡っている最中であった。連合軍との距離はなんと五千メートルでしかなかった。
一部のドイツ軍は撤退しつつ、ドイツ軍弾薬庫を爆破していった。その一方で、連合軍機の編隊は幾波にもわたり、ローマから北に敗走するドイツ軍隊列の上に爆撃を加えていた。ドイツ軍はひたすらフィレンツェを目指しており、この方面のゴシック防衛線を強化し、ここで踏みこたえようとしていたのだ。
 一方、ローマ市内では国民解放委員会やパルティザンの面々がイタリアの三色旗を手にし、入城して来たアメリカ軍の先頭に立ち、道案内や誘導、押し寄せる歓迎の人波の交通整理に当った。
前記エンリコ・マッティ記者が書いたように、市内にはファシストもまだ隠れていたし、ローマ市内は必ずしも百パーセント安全状態ではなかった。そうした状況だけにローマ入りした連合軍先遣部隊は当初、ローマ市民のリーダーシップを発揮しはじめている国民解放委員会やパルティザンに対して、必ずしも全幅の信頼を置いてはいなかった。
だが市民達が、指揮するパルティザン達の指図によく従い、何の支障もなく前進しているうちに疑いも解け、完全な“相棒”と認めざるを得なかった。とりわけパルティザン達が生命がけでドイツ兵と戦う姿を見て、アメリカ兵は驚嘆した。次のような事例がそれをよく表わしている。
四日夕刻、アメリカ軍がローマ市内に進出した時、数ヵ所で狙撃されることがあった。その度ごとにパルティザンが、狙撃兵の立て籠る建物に突入、ドイツ兵を捕虜にしてきた。それらドイツ兵は撤退に取り残された残存兵であった。また、ローマのパルティザンは四日夜、ローマ北方で数千人のドイツ兵を捕虜にし、武装解除させてローマに連れ戻して来たのである。カッシア街道のドイツ軍の退路にドイツ軍から略奪した地雷を敷設し、そのうえ側面から奇襲攻撃をかけて退却をあきらめさせたのであった。約百十人ほどのパルティザン部隊の戦果であった。
そうしたいくつもの事実の積み重ねが、連合軍のイタリア・パルティザンへの信頼を増していったのである。
 夜八時頃、アメリカ軍司令官マーク・クラーク大将がローマ入りした。将軍はジープに乗ったまま真っ先にヴァチカンのサン・ピエトロ広場を一巡、そのあとカンピドリオのローマ市庁舎に入った。市庁舎を占領軍の軍政部にするためであった。その夜クラークは国民解放委員会議長のボノミと会い、軍政につき協議を行った。同時に連合軍は敗走するドイツ軍追撃態勢に入った。
だがその晩、ローマ全市がお祭り騒ぎとなり、市民と連合軍兵士達が手をつなぎ、輪となって踊った。後年イタリアの世界的映画監督となるフェデリコ・フェリーニはその時二十四歳であった。すでに放送ドラマの脚本などを書き、映画監督の助手などをして、前年秋に同郷人で一歳下の女優ジュリエッタ・マシーナと結婚、ローマのパリオリ地区に住んでいた。彼はその六月四日の夜のことを次のように映像的に回想している(注2)。
「前日、私はサン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ広場からドイツ軍の装甲車が北の方に引き揚げて行くのを見た。これはいよいよ撤退だなと嬉しくて仕方がなかった。四日、街に出ようとしたら、マシーナが『危ないから、行かない方がいい』と引き止めた。でもじっとしてはおられず、飛び出した。いやあ、都心は人の波だった。ヴェネト街はイタリアの三色旗だらけだった。アメリカ兵のジープにはローマの娘達がぶら下がり、黒人兵達はグレン・ミラーの曲を賑やかに演奏し、狂喜していた。ボルゲーゼ公園の中ではモロッコ兵の集団が歌っていた。スペイン広場では連合軍兵士とローマ市民がブドウ酒を飲んで踊っていた。ローマは前代未聞の光景を見せていた。四十年経っても忘れられない」
 五日も同じような情景が市内いたるところで繰り広げられた。だが市民の誰もが食糧にこと欠き、連合軍としては早急に対策を迫られた。イタリア戦線の連合軍最高司令部はナポリに近いカセルタに置かれたまま、一切の軍政はローマを中心に市民や国民解放委員会の協力で進められることになった。
ドイツ軍が撤退後、ローマのメッサジェーロ紙は六日付で新生の四ページ新聞を発行した。一面には「ローマ狂喜の一日」「ドイツ軍、北に敗走。連合軍が追撃中」の大見出しが躍り、二面では「市民は武器を当局に引き渡すこと」「夜九時以降の夜間外出禁止」と軍政部布告が掲載された。ドイツ軍が禁止した二輪車はこの布告で解除された。三面では、「ローマ市民よ、忘れるな! ナチ・ファシストによる暴虐を!」と題し、全ページをさいてはじめてアルデアティーネの大虐殺を報じた。最終第四面ではナチ親衛隊によってブルーノ・ブオツィら十三人がラ・ストルタで銃殺されたことを報じ、またロンドン電として近く連合軍がフランスに上陸の模様と、後に「史上最大の上陸作戦」と呼ばれる六月六日のノルマンディー上陸作戦を予告していた。
このような報道の自由はファシズム政権以来二十余年間、イタリアでは絶えてなかったことであり、ナチ・ファシストによる恐怖政治がなくなったことも手伝って、ローマの夏はひもじくとも活気と希望に溢れたものとなった。中でもヤミ市はいずこも人だかりの大活況を呈した。
九ヵ月前にローマから南に脱出した国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世やバドリオ政府も連合軍のローマ入りの後を追って首都に戻っては来たが、国民と軍隊を混乱の中に捨て、無政府状態とナチ支配を招いた責任からローマ市民の国王やバドリオ政権への目は冷たかった。このため国王は五日、退位の準備として皇太子ウンベルト二世を摂政に据えた。摂政ウンベルト二世は八日、新政府首班に国民解放委員会議長イヴァノエ・ボノミを任命した。ローマの新市長には隠棲していた反ファシストのフィリッポ・ドーリア・パンフィッリ侯が就任、新しいイタリアの首都の政治体制がととのった。
 しかしローマ以北のイタリアは依然、ナチ・ファシストの占領下に置かれていた。国民解放委員会にとっては、むしろこれからが試練であった。ローマではアルデアティーネ大虐殺以降の二ヵ月間で、ナチ・ファシストの手によってパルティザンや市民千四十六人が殺害された。うち四百二十七人は刑場で銃殺刑に処せられている。このほか行方不明者七十四人、重軽傷者も三百二十六人に上っていた。
ローマ以北ではこれからもこうした犠牲者が出ることは必至で、それはまたナチ・ファシスト側にも同様の犠牲者を出すことを意味していた。交戦国兵士の戦死傷者も、ローマ進攻作戦だけでアメリカ軍約一万八千、イギリス軍約一万五千、フランス軍約一万一千を出した。守勢のドイツ軍にいたっては約三万八千の戦死傷者を数えている。
このためボノミ政権は、戦争を早期に終結させるためにはドイツ軍を降伏させる以外にないとし、北イタリア国民解放委員会と密接な協調をはかり、かつ、これを支援することに重点を置いた。ボノミは八月、ミラノの北イタリア国民解放委員会に書簡を送り、同委員会に「ナチ・ファシスト占領下での国民的闘争のためのイタリア政府の北イタリア代表」という地位を与えるとともに、「ナチ占領下の抵抗運動における一切の政治的・軍事的権限を持つ」ものとした。
一方、北イタリア国民解放委員会は北イタリアの対ナチ・ファシストへの抵抗運動、パルティザン活動を一挙に拡大するため、同委員会内に「自由志願軍団(CVL)」を創設、連合軍側も北イタリアの抵抗運動に物心両面の支援を行うことを確認した。
八月十一日には反ファシストの軍人ラファエレ・カドルナ将軍が、北イタリア全体のパルティザン活動の軍事面を指揮するため、イギリス軍情報将校とともに夜陰にまぎれて北イタリアに降下した。カドルナ将軍の祖父は一八七〇年九月、ローマを落城させた国家統一運動の最後を飾った人物で、父もまた第一次大戦で勲功を立てている将軍であった。
カドルナ将軍自身、第二次大戦中はローマ防衛司令官だったこともあるが、ドイツ軍のローマ占領と同時に地下に潜行し、パルティザン活動に身を投じ、連合軍との連絡に当っていた。北イタリアのパルティザン指揮官としては、まさに打ってつけの人物であった。このカドルナを支援するため、行動党と共産党からフェルチョ・パッリ、ルイジ・ロンゴの二人もそれぞれ北イタリア国民解放委員会の軍事委員として後日、合流することになる。
イタリア政府はすでに前年の十月十三日、ドイツに宣戦を布告しており、イタリアは連合国からドイツに対する「CO-BELLIGERENT(共同交戦国)」の地位を与えられていたことは前述の通りである。ちなみに前年九月末に、連合国とイタリアとの間で交わされた「イタリア降伏文書」も、イタリアの対ドイツ宣戦四日後に大幅修正され、第一項の「無条件降伏」の語は削られ、単に「イタリア三軍は降伏した」になり、第六項で「これら項目はバドリオ元帥により無条件で受諾された」と、この個所でのみ“無条件”の文字が使われた。
しかしこのイタリア降伏文書も、その後の事態の急変から実効も意味も失い、事実上なきに等しくなる。それはイタリアのパルティザン活動の貢献によるところが絶大であった。同じ枢軸国の日本とドイツとは、国際法上からも異った処遇をイタリアは受けたのである。
イタリアの反ナチ・ファシズム抵抗運動は、このローマ解放を機にさらに燃え広がり、「LIBERAZIONE(解放)」は一九四五年四月まで、パルティザンの合言葉となる。
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