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ムッソリーニの処刑32

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:統帥、ドイツ兵に変装 ドンゴ村ムッソの教会主任司祭エネア・マイネッティ神父は、二十七日午前七時頃、朝の祈りを終えて偶然、
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統帥、ドイツ兵に変装
 
 ドンゴ村ムッソの教会主任司祭エネア・マイネッティ神父は、二十七日午前七時頃、朝の祈りを終えて偶然、湖畔の道路を進むドイツ軍トラックの隊列を窓から目撃した。やがて、その隊列が先頭から順々に停止すると、兵士らがトラックから飛び降り、銃を片手に騒ぎ始めた。ただならぬ動きであった。神父がじっと様子を見ていると、やがて一人の将校が兵士を伴って、教会のドアを押して入って来た。
応待に出たマイネッティ師にドイツ軍将校はイタリア語ではなくラテン語で尋ねてきた。神父は正確な意味が聞きとれなかった。イタリア語で問い返すと、その将校はイタリア語が話せないことが分った。しかし結局、神父に分ったことは「ここにはどのくらいの人数がいるのか?」をその将校が知りたがっていることであった。
ドイツ将校の方は、部隊がバリケードで阻まれた以上、この近辺にパルティザンがいると判断し、その勢力がどのくらいかを知ろうとしたのだった。ところが神父は、兵力ではなくドンゴ村の村民の数を聞いてきているものと勘違いし、「約三千人ほどです」と答えたのである。将校は黙って戻っていった。
ドイツ側指揮官キスナット少佐は、マイネッティ神父と話してきた将校から、パルティザン勢力は約三千人との報告を受けるや、即座に無抵抗の方針を決め、パルティザンとの交渉に入ることにした。ドイツ軍の中から白旗がかかげられたのは、この直後であった。神父の思わぬ怪我の功名と言うほかなかった(注1)。
ツバの付いた黒い帽子をかぶり、カイゼル鬚を生やしたペドロは、パルティザンの幹部らしくカーキ色のジャンパーを着て、腰のベルトには黒革入りの最新式ベレッタ拳銃を右に差していた。首にはガリバルディ旅団を示す赤い絹マフラーを粋になびかせて、部下一人を連れて道路上に出た。
部下達は相変らず、場所を変えながらあちこちの岩の間、岩の上から顔をのぞかせ、ドイツ軍に対して大勢のパルティザンがいるように装っていた。
ドイツ軍を代表して、ファルマイアー中尉がイタリア語でペドロに伝えた。
「われわれは貴下らと交戦する意志はない。現在、祖国に向け撤退中である」
ペドロは「その旨を近くの司令部に行って協議の上、返事する」と告げ、ドイツ側連絡将校を伴ってキアヴェンナに向った。別に司令部があるわけではなかった。単なる指揮所である。ペドロとしてはパルティザンよりドイツ兵力が決定的に優勢であるため、時間をかせぎ、ブラフを利かせるしかないと判断していた。ドイツの連絡将校を外に待たせて、ペドロは撤退条件をまとめ、十一時頃にムッソの現場に戻り、ファルマイアー中尉に次の条件をつきつけた。
一、ドイツ軍兵員と車両だけの通過を許可する。ただしイタリア人と民間の車は捕獲する
一、ドイツ軍の車両、兵員はドンゴでチェックする
ファルマイアー中尉は、他の将校と協議するため、三十分の猶予が欲しいと申し出た。ペドロはまだ弱冠二十五歳ながら、フィレンツェの貴族の生れで威厳をたたえながら中尉にたたみかけた。
「協議をするのは結構だが、この先にはわれわれパルティザンが完全に包囲し、十分の火器で待機している。無事通過を望むならば、われわれの条件をのむしかないことを勧告する。十五分だけ待つことにする」
その間、岩山からビルやピエトロも道路に出て来て、中尉の真正面に立って威圧した。ペドロとしては、この条件で交渉が成立することを待ち望んだ。ドイツ軍は装甲車一台を含む四十台もの車両と兵員がいる。各車両には数人の兵士と重火器が見えた。ペドロの第五十二ガリバルディ旅団は、名前は旅団だが全員で百二十人そこそこしかいない。しかも全員が十五キロ圏内に分散している。いったん戦闘となれば衆寡敵せずであることは明らかであった。
一方、かなりの勢力のパルティザンがいるものとみたドイツ軍は、いまはひたすら無事撤退の実現だけを願っていた。首都ベルリンは、ジューコフ元帥のソ連軍の猛攻にあって、まさに陥落目前であった。イタリアのドイツ軍も、ヴォルフ将軍が連合国と休戦を交渉中である。その状況の中で、ドイツ側は一戦交える必要性は毫(ごう)もなかった。結局、ドイツ部隊はペドロの提示した条件をのみ、二キロ先のドンゴ村広場に集結し、パルティザンによるチェックを受けることになった。
この時点で、ファシズムの統帥ムッソリーニの命運はほぼ決定的となった。ペドロことピエール・ルイジ・ベッリーニ・デッレ・ステッレのブラフがムッソリーニを“袋の鼠”に追い込んだからであった。
このペドロはそれから約四十年後の一九八四年一月二十六日、ミラノ南郊の自宅で死去した。病名は「不治の病い」と翌日の新聞に報ぜられた。それら各紙は、当時のペドロの写真付きで大々的に報じた。いずれも社会面のトップ扱いで、ラ・レプブリカ紙は「一九四五年にムッソリーニを逮捕したパルティザンのペドロ死す」と、全段抜きの大見出しをつけて、ムッソリーニ逮捕の状況を再現していた。
しかし一九四五年四月二十七日のこの段階で、このドイツ軍の隊列にムッソリーニらファシストの首脳陣がひそんでいるとは、ペドロは露知らなかった。ただ撤退するドイツ部隊をしっかりチェックし、不審なイタリア人がいたら逮捕する腹づもりだったと、後に語っていた。
 ドイツ軍の隊列は、ペドロらの先導と監視のもとに、ドンゴの村役場前の広場に集結することになるが、それより前にドイツ隊後尾にいたムッソリーニは、うかつにも時々、車から出ては外の空気を吸ったり、他の閣僚らと立ち話をしたりしていた(注2)。
その統帥の姿を前述のマイネッティ師が何度も教会の窓から目撃したのであった。まさかと思いながらも、その目で幾度も確かめた。目に映ったのはまさしく統帥に間違いなかった。そこで師はパルティザンにその旨を通報した。他の村民からも、ドイツ隊が走り出すころには「うしろの方にファシスト政府の閣僚がいる」との話がペドロに伝えられていた。
ファルマイアー中尉から撤退条件を聞いたキスナット、ビルツェル両親衛隊将校は、無事にドイツに移送するため、ムッソリーニをドイツ兵に変装させるしかなかった。
統帥の許に行って、ドイツ兵の鉄帽と外套を着けさせようとしたが、ムッソリーニは渋った。「ドイツに行って総統(ヒユーラー)に会った時に困る。恥かしいではないか」とも言った。キスナットは「そんな場合ではない。脱出の機会を逸してしまう」と強引だった。傍にいたクラレッタも「統帥、どうぞ御自分をお守り下さい」と懇願した。こうしてムッソリーニはドイツ軍の伍長の外套を着、鉄帽を頭にかぶった。クラレッタは航空兵の紺のオーバーオールを着せられ、飛行士の帽子をかぶせられた。
しかしあとのイタリア人は、ドイツ隊には入れられないと知って大いにあわてた。すでにドイツの隊列は動き始めていた。幾人かは近くのマイネッティ神父の教会に行き、保護を求めようとしたが捕った。パヴォリーニは山中に逃げて隠れたが、後刻パルティザンに捕まる。他の者はパルティザンに抵抗したためその場で逮捕された。
ドイツ軍の隊列が動き出したのは午後二時頃であった。ムッソリーニはその隊列の五番目のトラックの中にひそんでいた。ノロノロと進む隊列は間もなく『パルムの僧院』の主人公ファブリス・デル・ドンゴの郷里に入った。役場前広場には数十人のパルティザンが待機していた。村長でパルティザンのジュゼッペ・ルビーニもいた。彼の父はかつてのサランドラ内閣(一九一四年)の閣僚であった。その五十メートル平方の広場に、次々とトラックが入り、整列した。最後尾のトラックには捕ったイタリア人が一かたまりになってパルティザン達の小銃の下に座っていた。
しかし、一人だけ消えていた高官がいた。国防相グラツィアーニである。彼は前日、メナッジョから自家用車で逆のコモに向い、一行とは別行動をとっていたからである。「私は名誉ある軍人だ。戦って戦死するか、捕虜になるかだ」が口癖であった。結局二十八日に彼も別のパルティザンに捕まり、戦後の軍事法廷で十九年の刑を受けたがその後、減刑されて五一年一月ローマで死去する。ファシスト首脳としては戦後に生きた数少い一人であった。この元帥がメナッジョからコモに出たのは、統帥と衝突したからとか、逆に統帥から情勢を見極めるよう命令を受けたの二説あるが、真相は不明である。彼は戦後ムッソリーニの流れを汲む右翼政党「イタリア社会運動(ネオ・ファシスト)」を創設した。
 ドイツ軍の隊列がドンゴに着いた時刻、ミラノでは全市をあげてナチ・ファシズムへの戦勝祝賀が華々しく行われていた。二十五日のミラノ一斉蜂起宣言に次ぐ、解放の祝賀であった。ローマから進撃して来たパルティザン、途中から合流したフィレンツェ、ボローニャのパルティザン、それにジェノヴァ、トリノ、ヴェネツィアのパルティザンも参加して勝鬨の声を高々と上げた。
国民解放委員会首脳が一列横隊となって目抜き通りを晴やかにかつ厳かに堂々の行進をした。数百人もの髯面をした老若のパルティザンが三色旗を打ち振り、トラックや装甲車にまたがって、ゆっくりとそのあとに続いた。
ドゥオーモ広場、カステッロ広場には市民がつめかけて連日、各地で歌われた「BELLA CIAO(可愛い子)」や「BANDIERA ROSSA(赤い旗)」などのパルティザン賛歌を合唱した。
同時に市内外のドイツ軍、ファシスト軍は続々捕虜となって武装解除され、市民の怒声を浴びたり、殴られたりしていた。丸腰のドイツ軍幹部は、両手で顔をかくしたまま三々五々収容所へ連行された。ナチ・ファシズムに協力した市民達が、同じ市民達から摘発され暴行を受ける例は決して珍しくなかった。ドイツ軍将校と特別に親しくしていた女性達は、頭も丸坊主にされて市内を引き回された。その数は数十人にも上り、市民の嘲笑を買ったものである。
しかしまだ、ファシズムの巨頭ムッソリーニは捕っていない。何処にいるのか? 国民解放委員会の面々も、それが気懸りであった。
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