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寝ながら学べる構造主義01

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:まえがき本書は入門者のための、平易に書かれた構造主義の解説書です。私は「専門家のための」解説書や研究書はめったに買いませ
(单词翻译:双击或拖选)
まえがき

本書は入門者のための、平易に書かれた構造主義の解説書です。
私は「専門家のための」解説書や研究書はめったに買いません。
つまらないからです。
しかし、「入門者のための」解説書や研究書はよく読みます。
おもしろい本に出会う確率が高いからです。
「専門家のために書かれた解説書」には、「例のほらあれ……参ったよね、あれには(笑)」というような「内輪のパーティ・ギャグ」みたいなことが延々と書いてあって、こちらはその話のどこがおかしいのかさっぱり分からず、知り合いの一人もいないパーティに紛れ込んだようで、身の置きどころがありません。
それに対して、「入門者のために書かれた解説書」はとりあえず「敷居が低い」のが取り柄です。どんな読者でも「お客さま」として迎えようという態度がそこには貫かれています。
解説書におけるこの「敷居の高さの違い」はどこから来るのでしょう。
「内輪のパーティ」と、「だれでも参加自由のパーティ」の違いというだけなのでしょうか。それとも専門書と入門書では、書かれていることのクオリティが違うのでしょうか。
私は本質的な違いはそういうところにはないと思っています。
敷居の高さの違いは、「専門家のための書き物」は「知っていること」を軸に編成されているのに対し、「入門者のための書き物」が「知らないこと」を軸に編成されていることに由来する、と私は考えます。
専門家のための書き物は「知っていること」を積み上げてゆきます。
そこには、「周知のように」とか「言うまでもないことだが」とか「なるほど……ではあるが」というようなことばかり書いてあり、読むほうとしては「何が『なるほど』だ」と、しだいに怒りがこみ上げてきます。しかし、この怒りはゆえなきものではありません。私たちが苛立つのは、そこで「何か本質的なもの」が問われぬままに逸《そ》らされていると感じるからです。
それはTV中継で官僚の国会答弁を聞いているときの苛立ちにも似ています。官僚の答弁はたしかに専門的|語彙《ごい》と専門的知見に満ちあふれていますが、「そもそも政府とは誰のためにあるものなのか」とか「市場とは何のことなのか」とか「国際世論とは誰の意見のことなのか」といった、そこで現に語られている論題の根本になっているはずのことは決して問われることがありません。そういうおおもとのところに立ち帰って、現下の問題を根本的に検証しないとまずいんじゃないかと思うからこそ、私たちは官僚のつじつまは合っているけれど、誰に向かって語っているのか分からないような答弁を聞くといらいらしてくるのです。
それに対して、「よい入門書」は、「私たちが知らないこと」から出発します。
よい入門書は「私たちが知らないこと」から出発して、「専門家が言いそうもないこと」を拾い集めながら進むという不思議な行程をたどります。(この定義を逆にすれば「ろくでもない入門書」というものがどんなものかも分かりますね。「素人が誰でも知っていること」から出発して、「専門家なら誰でも言いそうなこと」を平たくリライトして終わりという代物です。私はいまそのような入門書の話をしているのではありません。)
よい入門書は、まず最初に「私たちは何を知らないのか」を問います。「私たちはなぜそのことを知らないままで今日まで済ませてこられたのか」を問います。
これは実にラディカルな問いかけです。
なぜ、私たちはあることを「知らない」のでしょう? なぜ今日までそれを「知らずに」きたのでしょう。単に面倒くさかっただけなのでしょうか?
それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。
「知りたくない」からです。
より厳密に言えば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。
無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。
嘘だと思ったら、親が説教くさいことを言い始めた瞬間にふいと遠い目をする子どもの様子を思い出して下さい。
子どもは、親が「世間話モード」から「説教モード」に切り替わる瞬間をしっかり見切って、即座に耳を「オフ」にします。教師に対しても、バイト先の店長に対しても同じです。子どもは「大人の説教」をひとことでも耳に入れないために、アンテナを張り巡らし、「説教」の兆候がないかどうか、不断の警戒を怠りません。たいへんな努力だと思いませんか?
もしも子どもが単に不注意で怠惰であるだけだったら、「ついうっかりして、親の説教を最後まで真剣に聞いてしまった」ということだって起こってよいはずです。でも、そんなことは絶対に起こりませんね。
あることを知らないというのは、ほとんどの場合、それを知りたくないからです。知らずに済ませるための努力を惜しまないからです。
ですから「私たちは何を知らないのか」という問いは、適切に究明されるならば、「私たちが必死になってそこから目を逸らそうとしているもの」を指示してくれるはずです。
例えば、医学の専門書にはさまざまな病気のさまざまな治療法が書いてありますが、「人はなぜ老いるのか」「人はなぜ死ぬのか」という問いは主題的には論じられません。だって、誰もその答えを知らないからです。そして、それこそ私たちがそこから目を逸らそうとしている当の問いだからです。
しかし、真にラディカルな「医学の入門書」があるとしたら、それはおそらく「人はなぜ死ぬか」という問いから始まるでしょう。そして「死ぬことの意味」や「老いることの必要性」について根源的な省察を行うはずです。病気の治療法や長寿法についての知識や情報は、そのあとに、その根源的な省察の上に基礎づけられるべきものだからです。
 入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返し繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。
知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。そして、その「答えられない問い」、時間とは何か、死とは何か、性とは何か、共同体とは何か、貨幣とは何か、記号とは何か、交換とは何か、欲望とは何か……といった一連の問いこそ、私たちすべてにひとしく分かち合われた根源的に人間的な問いなのです。
入門書が提供しうる最良の知的サービスとは、「答えることのできない問い」、「一般解のない問い」を示し、それを読者一人一人が、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと噛みしめることができるように差し出すことだと私は思っています。
 さて、この本が「入門者のために書かれた構造主義の平易な解説書」である、というのは、以上のような了解を踏まえた上での「名乗り」であります。
これまでの説明でお分かりいただけたでしょうが、この本は「私が知っていること」よりむしろ「私が知らないこと」を中心に書かれています。
というのは、「私が知っていること」にはかなり私の個人的な趣味嗜好による偏向がありますが、「私が知らないこと」、つまり「私がそれと取り組むことを避けてきた、一般解のない問い」は、二〇世紀後半の日本社会を生きてきたおおかたの日本人読者と共通するもののように思えるからです。
それにしても、「自分の知らないこと」をたねにして本を書いたりしてよいものか、というご疑念が出されるのもごもっともです。しかし、「自分の知らないこと」を本に書くのは「あり」です。
なにしろ「知らない」ことを調べながら書く自転車操業ですから、どの主題についても、噛み砕きにくい概念や理論については、「ついさきほど、『あ、なるほど、そういうことね』と膝を打った」という「出来たてほやほや」の状態にあります。ついいましがた自分が通り抜けたばかりの論理的な難所についてご案内するわけです。これは『地球の歩き方』を読むときには、現地に三代前から住んでいる人の情報よりも、さきほどそこを旅行してきたばかりの人の情報のほうが、旅行者にとっては「使い勝手がよい」というのと同じです。
 本書のもとになったのは、ある市民講座で行った講義のノートです。この市民講座の聴講生はフランス現代思想についても哲学史についても、ほとんど予備知識のない市民のみなさんで、平均年齢は六十歳(最年長の方は八十二歳)、講義は一回きりで、持ち時間は九十分というものでした。
いくら向学心旺盛とはいえ、予備知識ぬきの聴講生に、構造主義についてとりあえず一覧的な情報を一時間半でお伝えするというのはなかなか骨の折れる仕事です。
とりあえず、「分かりやすく」ということを目標にして講義ノートを書きました。
ただし、「分かりやすい」というのは決して「簡単」という意味ではありません。「分かりやすい」と「簡単」は似ているようで違います。どちらかというと、私はむしろ「話を複雑にする」ことによって、「話を早く進める」という戦術を採用しています。
思想史を記述する場合、ある哲学上の概念を一義的に定義しないと話が先へ進まないということはありません。「主体」や「他者」や「欲望」といったような基本的な概念については、その定義について学界内部的な合意形成ができているわけではありません。ですから、「『他者』とはこれこれこういうものである」「何を言うか、『他者』とはこれこれのものである」というような教条的な議論につきあっているのは時間の浪費です。
「『他者』といったら、まあ『他の人』だわな」くらいのゆるやかな了解にとどめておいて、とりあえず話を先へ進めたいと私は考えております。
私がめざしているのは、「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしのよい思想史的展望を示す、ということです。
構造主義という思想がどれほど難解とはいえ、それを構築した思想家たちだって「人間はどういうふうにものを考え、感じ、行動するのか」という問いに答えようとしていることに変わりはありません。ただ、その問いへの踏み込み方が、常人より強く、深い、というだけのことです。ですから、じっくり耳を傾ければ、「ああ、なるほどなるほど、そういうことって、たしかにあるよね」と得心がゆくはずなのです。なにしろ、彼らがその卓越した知性を駆使して解明せんとしているのは、他ならぬ「私たち凡人」の日々の営みの本質的なあり方なのですから。
まえおきは以上で終わりです。では、本論に入りましょう。
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