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寝ながら学べる構造主義04

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:3 マルクスの地動説的人間観[#「3 マルクスの地動説的人間観」はゴシック体] 自分の思考や判断にはいったいどれくらいの
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3 マルクスの地動説的人間観[#「3 マルクスの地動説的人間観」はゴシック体]
 自分の思考や判断にはいったいどれくらいの客観性があるのだろうか、ということを反省した人は昔からたくさんいました。
世界は自分の目に見えているのと同じように他のすべての人にとっても見えているのだろうか。自分にとって「自明」であることは、他の人にとっても等しい確実性をもって自明なのだろうか。このような懐疑は哲学の出発点ですから、プラトンも、デカルトも、カントもみなそのような懐疑からそれぞれの哲学を出発させました。
しかし、この懐疑は、もっぱら、アームチェアに坐って、パイプをくゆらしながら進められる純粋に思弁的なものにとどまっていました。そのような懐疑が、思索している当の哲学者自身の日常の生き方にじかに反映して、その人の生活を一変させ、その人をとりまく世界を変える、というようなことはあまり起こらなかったのです。
自分の思考や判断はどんな特殊な条件によって成り立たせられているのか、という問いをつきつめ、それを「日常の生き方」にリンクさせる道筋を発見した最初の例は、カール・マルクス(Karl Marx 一八一八〜八三)の仕事です。意外に思われるかも知れませんが、構造主義の源流の一つは紛れもなくマルクスなのです。
マルクスは社会集団が歴史的に変動してゆくときの重大なファクターとして、「階級」に着目しました。マルクスが指摘したのは、人間は「どの階級に属するか」によって、「ものの見え方」が変わってくる、ということです。この帰属階級によって違ってくる「ものの見え方」は「階級意識」と呼ばれます。
ブルジョワとプロレタリアは単に生産手段を持っているか否かという外形的な違いで区別されるだけでなく、その生活のあり方や人間観や世界の見え方そのものを異にしています。
人間の中心に「人間そのもの」──普遍的人間性──というものが宿っているとすれば、それはその人がどんな身分に生まれようと、どんな社会的立場にいようと、男であろうと女であろうと、大人であろうと子どもであろうと、変わることはないはずです。マルクスはそのような伝統的な人間観を退けました。人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」ではなく、「何ごとをなすか」によって決定される、マルクスはそう考えました。「何ものであるか」というのは、「存在する」ことに軸足を置いた人間の見方であり、「何ごとをなすか」というのは「行動すること」に軸足を置いた人間の見方である、というふうに言い換えることができるかも知れません。
「存在すること」とは、与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者という立場に甘んじることです。静止していることは「堕落すること、禽獣《きんじゆう》となることである」という考え方、これをマルクスはヘーゲルから受け継ぎました。たいせつなのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。煎じ詰めれば、ヘーゲルの人間学とはそういうものでした。(このヘーゲルの人間理解は、マルクス主義から実存主義を経由して構造主義に至るまで、ヨーロッパ思想に一貫して伏流しています。)
「普遍的人間性」というようなものはない。仮にあったとしても、それは現実の社会関係においては、「現状肯定」──「存在すること、行動しないこと」を正当化するイデオロギーとしてしか機能しない。マルクスはそう考えました。人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何ものであるかを規定し返す。生産関係の中で「作り出したもの」を媒介にして、人間はおのれの本質を見て取る、というのがマルクスの人間観の基本です。
「動物は単に直接的な肉体的欲求に支配されて生産するだけ」に過ぎませんが、人間は食べたり飲んだり眠ったりという直接的な生理的欲求を超えて、狩猟し、採取し、栽培し、交易し、産業を興し、階級を生み出し、国家を創建します。それは人間が動物的な意味で生きてゆくためにはもとより不要のものです。人間がそのような「もの」を作り出すのは、「作られたもの」が人間に向かって、自分が「何ものであるか」を教えてくれるからです。人間は「彼によって創造された世界の中で自己自身を直観する」のです。(『経済学・哲学草稿』)
人間は生産=労働を通じて、何かを作り出します。そうして制作された物を媒介にして、いわば事後的に、人間は自分が何ものであるかを知ることになります。ちょうど透明人間の輪郭は彼が通過して割れたガラス窓の割れ具合からしか知られないように。
この「作り出す」活動は一般に「労働」と呼ばれます。マルクスはこの労働を通じての自己規定という定式をヘーゲルから受け継ぎました。
ヘーゲルによれば、「人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけ」です。人間が「自然的存在者以上のもの」であるのは、ただ「人為的対象を作り出した後」だけです。
動物は自然的存在者である状態に自足して生きています。ですから「おのれが何ものであるか」「おのれの生きる意味は何か」というような問いを立てることがありません。(実際に動物に訊ねたことがないので、断言はできませんが。たぶんそうだと思います。)
たしかに、動物も人間と同じように存在の欠如を感じることがあるでしょう(空腹とか生殖の欲望とか)。しかし、その欲望の対象は自然的、生物的、物質的なものに限定されており、欲望の充足とともに、動物は「所与としての自己」への深い自足のうちにふたたび戻ります。動物は、「所与としての自己」、あるがままのおのれと、「あるべきおのれ」とのあいだの乖離《かいり》感に苦しむということがありません。(たぶん。)
「動物は自己について語ること、『我は……』と言うことができない」とヘーゲルは考えます。あるがままの自己を「超越」して、「自己を自己自身以上に高め」る、というような野心的なアイディアはおそらく動物の頭脳には浮かびません。(「空の飛び方」を習得した猫とか、飛翔法の改善を企てるカモメとかを描いた「お話」はありますが、もちろんこういうのは作家の作り出した「寓話」に過ぎません。)
動物は自己意識を持ちません。
ヘーゲルの言う「自己意識」とは、要するに、いったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということです。自分自身のフレームワークから逃れ出て、想像的にしつらえた俯瞰《ふかん》的な視座から、地上の自分や自分の周辺の事態を一望することです。人間は「他者の視線」になって「自己」を振り返ることができますが、動物は「私の視線」から出ることができないので、ついに「自己」を対象的に直観することができないのです。
想像的に鳥になってみれば分かるはずですが、地表から高く飛び上がれば飛び上がるほど、地上にいる「私」についての情報は増えます。「私」が空間的な布置のどこに位置を占めていて、どのような機能を果たしているのか、何を生み出し、何を破壊し、何を育み、何を損なっているのか……。想像的に確保された「私」からの距離、それが自己認識の正確さを保証します。「人間は彼によって創造された世界の中で自己自身を直観する」というマルクスのことばはそのように解釈するべきでしょう。
ヘーゲルもマルクスも、この自己自身からの乖離=鳥瞰《ちようかん》的視座へのテイク・オフは、単なる観想(一人アームチェアに坐って沈思黙考すること)ではなく、生産=労働に身を投じることによって、他者とのかかわりの中に身を投じることによってのみ達成されると考えました。つまり「労働するものだけが、『私は』ということばを口にすることができる」ということになります。
生産=労働による社会関係に踏み込むに先んじて、あらかじめ本質や特性を決定づけられた「私」は存在しません。存在するのかも知れませんが、定義上、そのような「私」は決して私自身によって直観されることがありません。というのも、「私を直観する」ことは、他人たちの中に投げ入れられた「私」を風景として眺めることによってしか成就しないからです。(それは、子どものいない人に内在する「親の愛」や、弟子を持たない先生に内在する「師としての威徳」とかと同じものです。潜在的にはあるのかも知れませんが、現実の人間関係の中に置かれないかぎり、それが「ほんとうにあるのかどうか」を検証する手だてはありません。)
私たちは自分が「ほんとうのところ、何ものであるのか」を、自分が作り出したものを見て、事後的に教えられます。私が「何ものであるのか」は、生産=労働のネットワークのどの地点にいて、何を作り出し、どのような能力を発揮しており、どのような資源を使用しているのかによって決定されます。
自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。それは見たとおり、ヘーゲルとマルクスから二○世紀の思考が継承したものなのです。
ネットワークの中心に主権的・自己決定的な主体がいて、それがおのれの意思に基づいて全体を統御しているのではなく、ネットワークの「効果」として、さまざまのリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」は決定される、というこの考え方は、「脱─中心化」あるいは「非─中枢化」とも呼ばれます。
中枢に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という「天動説」的な人間観から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの「絡み合い」として主体は規定されるという「地動説」的な人間観への移行、それが二○世紀の思想の根本的な趨勢である、と言ってよいだろうと思います。
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