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寝ながら学べる構造主義05

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:4 フロイトが見つけた「無意識の部屋」[#「4 フロイトが見つけた「無意識の部屋」」はゴシック体] マルクスと並んで構造
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4 フロイトが見つけた「無意識の部屋」[#「4 フロイトが見つけた「無意識の部屋」」はゴシック体]
 マルクスと並んで構造主義の源流にはもう一人のユダヤ人学者の名前を挙げなければなりません。ジグムント・フロイト(Sigmund Freud 一八五六〜一九三九)です。
マルクスは人間の思考を規定するものとして、人間を巻き込む生産=労働の関係に着目しましたが、フロイトは逆に、人間のいちばん内側にある領域に着目します。人間が直接知ることのできない心的活動が人間の考えや行動を支配している、フロイトはそんなふうに考えました。この「当人には直接知られず、にもかかわらずその人の判断や行動を支配しているもの」、それが「無意識」です。
フロイトは彼自身の臨床例に基づいて、単純な言い間違い、書き間違い、物忘れといった日常的な失錯行為から始めて、強迫神経症やヒステリーに至るまで、すべての心的な症状は、その背後に「患者本人が意識することを忌避している、無意識的な過程」が潜在している、という仮説を立てました。フロイトの貢献はマルクスと深いところで通じています。それは「人間は自分自身の精神生活の主人ではない」ということです。
フロイトは心理学の目的を「自我はわが家の主人であるどころか、自分の心情生活の中で無意識に生起していることについては、わずかばかりの報告をたよりにしているに過ぎないのだ、ということを実証」することである、と書いています。(『精神分析入門』)
マルクスは人間は自由に思考しているつもりで、実は階級的に思考している、ということを看破しました。フロイトは人間は自由に思考しているつもりで、実は自分が「どういうふうに」思考しているかを知らないで思考しているということを看破しました。自分がどういうふうに思考しているか思考の主体は知らない、という事実をもっとも鮮やかに示すのがフロイトの分析した「抑圧」のメカニズムです。
ある心的過程を意識することが苦痛なので、それについて考えないようにすること、単純に言えば、それが抑圧です。フロイトはこのメカニズムを「二つの部屋」とそのあいだの敷居にいる「番人」という卓抜な比喩で語りました。
「無意識の部屋」は広い部屋でさまざまな心的な動きがひしめいています。もう一つの「意識の部屋」はそれより狭く、ずっと秩序立っていて、汚いものや危ないものは周到に排除されており、客を迎えることができるサロンのようになっています。そして、「二つの部屋の敷居のところには、番人が一人職務を司っていて、個々の心的興奮を検査し検閲して、気に入らないことをしでかすとサロンに入れないようにします。」(『精神分析入門』)
フロイトはこの番人の機能を「抑圧」と名づけました。
フロイトが発見したのは、第一に、私たちは自分の心の中にあることはすべて意識化できるわけではなく、それを意識化することが苦痛であるような心的活動は、無意識に押し戻されるという事実です。私たちの「意識の部屋」には番人が許可したものしか入れないのです。
この機制は二種類の無知によって構成されています。一つは、「番人」がいったい「どんな基準で」入室してよいものといけないものを選別しているのか、私たちは知らないということ。いま一つは、そもそも「番人」がそこにいて、チェックをしているということ自体、私たちは知らないということです。この構造的な「無知」によって、私の意識は決定的な仕方で思考の自由を損なわれています。
抑圧の及ぼす「無知の効果」について、分かりやすい例を一つ挙げましょう。狂言の『ぶす』というお話です。みなさんご存知でしょうが、こんなお話です。
主人が、太郎冠者と次郎冠者に貴重品である砂糖つぼを委《ゆだ》ねて外出することになります。留守中に盗み食いをされてはたまらないので、主人は二人にこれは「ぶす」というたいへんな毒物であるから、決して近づかぬようにと釘を刺して出かけます。
最初は「ぶす」のほうから吹く風にも怯《おび》えていた二人ですが、やがて好奇心に負けて「ぶす」のふたを開けてしまいます。そこから漂う芳香につられて、口のいやしい太郎冠者は制止もきかず「ぶす」をなめてしまいます。そして「ぶす」が砂糖であることを発見します。二人でぺろぺろなめているうちに砂糖つぼは空になってしまいます。
始末に窮した太郎冠者は一計を案じ、二人で主人秘蔵の掛け軸を破り、皿を砕くことにしました。
帰宅して散乱した家の中をみて唖然とする主人に、太郎冠者はこう説明します。
「お留守のあいだに眠ってはいけないと、次郎冠者と相撲をとっておりましたら、勢い余って、あのように家宝の品々を壊してしまいました。これではご主人に会わせる顔がない、二人で『ぶす』を食べて死んでお詫びを、と思ったのですが、いくら食べても、さっぱり死ねず……」
この笑劇は「抑圧」とはどういうメカニズムかを実にみごとに物語っています。
主人公は太郎冠者です。彼の前に散乱している空になったぶすの壺、打ち壊された家宝、青ざめている主人……それらがとりあえず「さまざまな心的過程」です。太郎冠者の意識と無意識のあいだにはちゃんと「太郎冠者専用の番人」がいすわっていて、これらの「さまざまな心的過程」の断片のうちから、「意識化するのが苦痛である断片」が太郎冠者の「サロン」に入室することを防いでいます。「番人」はあれこれの心的過程のうち、太郎冠者にとって不快ではない情報だけに意識化を許し、意識すると不愉快になるような心的過程は「無意識の部屋」に取り残されます。
目の前には、壊れた家宝と、からっぽになった砂糖つぼがあります。これを太郎冠者は「(命令|遵守《じゆんしゆ》のための相撲による)家財の破壊と引責自殺の試み」という「忠義の物語」に編集します。実際に起きたのとは時間の順逆が狂っているのですが、もうどちらも過ぎてしまったことですから、タイムマシンがない以上、太郎冠者が真実を語っているのか嘘をついているのかは主人には確かめようがありません。
太郎冠者はまさしくそう考えました。無秩序に散乱した「断片」がそこにあるとき、そこから可能性としては、どんな物語でも編み上げることができる。太郎冠者の創造した物語が虚偽で、主人の想像した物語が真実であると言い切れるものはどこにもいないのだ、と。
しかし、太郎冠者の完全犯罪は成就しません。狂言の舞台では主人は瞬時のうちに太郎冠者の奸計を見破り、「遣《や》るまいぞ、遣るまいぞ」と追い回し、笑いのうちに劇は終わります。
なぜ、太郎冠者の偽装工作は一瞬のうちに見破られたのでしょう。
ここが抑圧メカニズムのかんどころです。
『ぶす』で私たちがこだわるべきなのは、「番人」は何を受け入れ、何を拒んだのかという問題です。というのも、太郎冠者の「番人」は「ある心的過程」の受け入れを拒み、結果的には、それが太郎冠者の失敗につながったからです。
太郎冠者の「番人」が入室を拒否して抑圧したのは「太郎冠者が嘘つきの不忠者であることを主人は知っている」という情報です。
太郎冠者は自分のことをあらゆる可能性を勘定に入れることのできる狡猾な人間だと思い込んでいます。ところが、その太郎冠者は、「自分が嘘つきであることを主人は知っている」という可能性だけはみごとに勘定に入れ忘れたのです。
この太郎冠者の「構造的無知」は実は物語のはじめから私たちには知られていました。というのは、主人が砂糖を「毒だ」と言ってごまかそうとするのは、そうでも言わないと、太郎冠者はすぐに盗み食いをするに違いないということを主人は「知っていた」からです。太郎冠者が不忠者であることは物語の最初から太郎冠者以外の全員が知っており、太郎冠者だけが「みんながそれを知っていることを知らなかった」のです。
なぜ、そんなことが起こるのでしょう。
それは太郎冠者が主人を内心では侮《あなど》っているために、自分より愚鈍であるはずの主人に自分の下心が見抜かれているという可能性を認めるわけにゆかなかったからです。主人は自分より愚鈍であって「欲しい」という太郎冠者の「欲望」が、怜悧な彼の目をそこだけ曇らせたのです。こうして、「『太郎冠者が何ものであるかを主人は知っている』ということを太郎冠者は知らない」という構造的無知が成立することになります。これが「抑圧」という機制の魔術的な仕掛けです。
この無知は太郎冠者の観察力不足や不注意が原因で生じたのではありません。そうではなくて、太郎冠者はほとんど全力を尽くして、この無知を作り出し、それを死守しているのです。無知であり続けることを太郎冠者は切実に欲望しているのです。
 私たちは生きている限り、必ず「抑圧」のメカニズムのうちに巻き込まれています。そして、ある心的過程から組織的に眼を逸らしていることを「知らないこと」が、私たちの「個性」や「人格」の形成に決定的な影響を及ぼしています。
太郎冠者のタフで酷薄な性格は、実は彼の抑圧の効果なのです。だって、「太郎冠者が邪悪な人間であることを人々は知っている」という情報を太郎冠者自身が見落とし続けるという「構造的な無知」こそが太郎冠者の邪悪なキャラクターの成立を可能にしているからです。(当然ですよね、誰だって自分の邪悪な側面が「みんなに筒抜け」であると知っていたら、それを隠すか治すか、なんとかしますから。)
私たちは自分を個性豊かな人間であって、独特の仕方でものを考えたり感じたりしているつもりでいますが、その意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に眼を逸らし続けている」という抑圧のバイアスがつねにかかっているのです。
 私たちは自分が何ものであるかを熟知しており、その上で自由に考えたり、行動したり、欲望したりしているわけではない。これが前─構造主義期において、マルクスとフロイトが告知したことです。
マルクスは人間主体は、自分が何ものであるのかを、生産=労働関係のネットワークの中での「ふるまい」を通じて、事後的に知ることしかできないという知見を語りました。フロイトは、人間主体は「自分は何かを意識化したがっていない」という事実を意識化することができないという知見を語りました。
どうも、時代が下るにつれて、人間的自由や主権性の範囲はどんどんと狭くなってゆくようです。この流れを決定づけたもう一人の思想家をここで忘れずに紹介しておきましょう。
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