マルクス、フロイトの同時代にはもう一人、人間の思考が自由ではないこと、人間はほとんどの場合、ある外在的な規範の「奴隷」に過ぎないことを、激烈な口調で叫び続けた思想家がおりました。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche 一八四四〜一九〇〇)がその人です。
私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の「偏見」に他ならないということをニーチェほど激しく批判した人はおそらく空前絶後でしょう。
ニーチェの基本的立場は次のことばに集約されています。
私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の「偏見」に他ならないということをニーチェほど激しく批判した人はおそらく空前絶後でしょう。
ニーチェの基本的立場は次のことばに集約されています。
[#1字下げ]「われわれはいつもわれわれ自身にとって必然的に赤の他人なのだ。われわれはわれわれ自身を理解しない。われわれはわれわれ自身を取り違えざるを得ない。われわれに対しては『各人は各自に最も遠い者である』という格言が永遠に当てはまる。──われわれに対して、われわれは決して『認識者』ではないのだ。」(『道徳の系譜』)
ニーチェは、私たちは自分が何ものであるかを知らない、と言い切ります。それはヘーゲルのことばを使って言えば、「自己意識」を持つことができない存在だ、ということになります。(つまり動物と同レベルだ、ということです。)
どうしてこのような手厳しい批判が成り立つのか、その論脈を少していねいに押さえておきましょう。
ニーチェはもともと古典文献学者としてスタートした研究者です。古典文献学という学問はその研究者に特殊な心構えを要求します。それは、過去の文献を読むに際して、「いまの自分」の持っている情報や知識をいったん「カッコに入れ」ないといけない、ということです。そうしないと、現代人には理解も共感もできないような感受性や心性を価値中立的な仕方で忠実に再現することはできないからです。
ニーチェは異他的な精神の活動に偏見ぬきで共感する能力を、おそらく古典文献学を通じて体得したのだろうと思います。彼の卓越した共感能力は処女作である『悲劇の誕生』にすでにはっきりと示されています。
「芸術はアポロ的なものとディオニュソス的なものとの二重性によって進展してゆく」という有名なことばから始まるこのギリシャ文化論においてニーチェがめざしたのは、古代ギリシャ人が感じたであろう恐怖と陶酔を、彼自身がその内側から生き、追体験することでした。『悲劇の誕生』を書きつつあるニーチェはほとんど古代ギリシャ人になりきって、感激し、うち震えています。
例えば、『悲劇の誕生』で、ニーチェはギリシャ悲劇におけるコーラス(合唱隊)の分析を試みています。ここでニーチェは「コーラスは『理想的観客』である」という説を吟味して次のように書いています。
ふつう、演劇の観客は、舞台上で演じられている出来事は「事実ではない」ということをどんな場合でも意識にとどめています。それに対して、ギリシャ悲劇の中でのコーラスは、物語の単なる傍観者ではありません。出来事を眺めつつ、ときには出来事に驚愕《きようがく》し、ときには舞台上の出来事に介入します。
どうしてこのような手厳しい批判が成り立つのか、その論脈を少していねいに押さえておきましょう。
ニーチェはもともと古典文献学者としてスタートした研究者です。古典文献学という学問はその研究者に特殊な心構えを要求します。それは、過去の文献を読むに際して、「いまの自分」の持っている情報や知識をいったん「カッコに入れ」ないといけない、ということです。そうしないと、現代人には理解も共感もできないような感受性や心性を価値中立的な仕方で忠実に再現することはできないからです。
ニーチェは異他的な精神の活動に偏見ぬきで共感する能力を、おそらく古典文献学を通じて体得したのだろうと思います。彼の卓越した共感能力は処女作である『悲劇の誕生』にすでにはっきりと示されています。
「芸術はアポロ的なものとディオニュソス的なものとの二重性によって進展してゆく」という有名なことばから始まるこのギリシャ文化論においてニーチェがめざしたのは、古代ギリシャ人が感じたであろう恐怖と陶酔を、彼自身がその内側から生き、追体験することでした。『悲劇の誕生』を書きつつあるニーチェはほとんど古代ギリシャ人になりきって、感激し、うち震えています。
例えば、『悲劇の誕生』で、ニーチェはギリシャ悲劇におけるコーラス(合唱隊)の分析を試みています。ここでニーチェは「コーラスは『理想的観客』である」という説を吟味して次のように書いています。
ふつう、演劇の観客は、舞台上で演じられている出来事は「事実ではない」ということをどんな場合でも意識にとどめています。それに対して、ギリシャ悲劇の中でのコーラスは、物語の単なる傍観者ではありません。出来事を眺めつつ、ときには出来事に驚愕《きようがく》し、ときには舞台上の出来事に介入します。
[#1字下げ]「ギリシャ人の悲劇のコーラスは、舞台上の人物を生身の肉体をそなえた実在の人物と見なすよう強いられている。オケアノスの娘たちのコーラスは、巨人プロメテウスを目の前にながめているのだとほんとうに信じているし、自身、舞台の神と同様に実在の身であると考えているのである。」(『悲劇の誕生』)
ギリシャ悲劇のコーラスは、ですから、まるで登場人物のように、舞台上のドラマに巻き込まれ、叫び、泣き、笑い、その出来事を内側から「生きる」ことになります。
[#1字下げ]「完全に理想的な観客とは、舞台の世界を美的なものとしてではなく、生身の肉体をそなえた経験的なものとして感受することだというのである。おお、このギリシャ人たちは!」
そのようなコーラスを媒介者として、ギリシャの観客は悲劇が蔵している「事物の根底にある生命」に触れることができたのだ、そうニーチェは考えます。
当否は措《お》くとして、これは興味深い考え方です。というのは、この分析は、舞台の世界を「生身の肉体をそなえた経験的なものとして感受」しているギリシャの合唱者たちの感動を、ニーチェ自身が現に「生身の肉体をそなえた経験的なものとして」感受している、という「入れ子構造」になっているからです。ニーチェはギリシャ人の異他的なものに対する「共感の仕方」に「共感」しているのです。
これは、ずいぶん変わったアプローチに見えますが、遠い時代の、遠い祖先の経験を伝承するための方法としては、実はたいへんに正統的なやり方なのです。
技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。
ギリシャ悲劇を見て感動している古代ギリシャ人の「感動の仕方」そのものに感動するという、「自乗された感動」によって、ニーチェは「いっさいの文明の背後に絶えることなく生き続け、世代や民族史がいくたびか移り変わっても永遠に不変な」(『悲劇の誕生』)ものに触れることを望んでいたのです。
これはヘーゲルが「自己意識」ということばで言おうとしていた事態とそれほど違うものではありません。というのは、「自己意識」とは、要するに、「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から自分を振り返る、ということに他ならないからです。
ニーチェは古典文献学者としての経験を踏まえて、異邦の、異文化のうちにある人々の、身体的な経験を「その身になって」、内側から想像的に追体験することのうちに「自己意識」獲得の可能性を求めました。遠い太古の、異郷の人の身体に入り込めるような、のびやかで限界を知らない身体的想像力に裏打ちされた知性だけが適切な「自己認識」を可能にするだろう、とニーチェは洞察したのです。
そうだとすると、ニーチェが同時代人に向けた「われわれはわれわれ自身を理解していない」という激しい批判のことばは、このようなのびやかな知性の働きが、いまや致命的な仕方で損なわれている、ということを意味していることになります。
同時代人(原理的には、私たちもそこに含まれます)は「臆断」の虜囚になっている、ニーチェはそう断定します。一九世紀のドイツのブルジョワで、キリスト教徒である、ニーチェの同時代人は、自分たちにとって「ナチュラル」と思われる価値判断や審美的判断を、歴史的に形成された偏見や予断であるとはみなさず、人類一般に普遍的に妥当するものだと信じ込んでいました。彼らはある特定の時代の、特定の地域に固有の、狭隘《きようあい》でいびつな世界観にしがみつき、それをこそ「世代や民族史がいくたびか移り変わっても永遠に不変であるもの」だと思い込んでいたのでした。
自己意識のこの致命的な欠如ゆえに、ニーチェの目には、彼の同時代人たちは、自分が「何ものである」かを知らず、自分がどんな仕方で「思考している」のかを知らない恐るべき愚物に映りました。
なぜこのような愚物たちが一九世紀末におびただしく簇生《そうせい》してきたのか。ニーチェの「系譜学的」な思考は、その歴史的淵源に向かいます。すごく平たく言えば、ニーチェのそれ以後の全著作は「いかにして現代人はこんなにバカになったのか?」という総題を持つことになるのです。
当否は措《お》くとして、これは興味深い考え方です。というのは、この分析は、舞台の世界を「生身の肉体をそなえた経験的なものとして感受」しているギリシャの合唱者たちの感動を、ニーチェ自身が現に「生身の肉体をそなえた経験的なものとして」感受している、という「入れ子構造」になっているからです。ニーチェはギリシャ人の異他的なものに対する「共感の仕方」に「共感」しているのです。
これは、ずいぶん変わったアプローチに見えますが、遠い時代の、遠い祖先の経験を伝承するための方法としては、実はたいへんに正統的なやり方なのです。
技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。
ギリシャ悲劇を見て感動している古代ギリシャ人の「感動の仕方」そのものに感動するという、「自乗された感動」によって、ニーチェは「いっさいの文明の背後に絶えることなく生き続け、世代や民族史がいくたびか移り変わっても永遠に不変な」(『悲劇の誕生』)ものに触れることを望んでいたのです。
これはヘーゲルが「自己意識」ということばで言おうとしていた事態とそれほど違うものではありません。というのは、「自己意識」とは、要するに、「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から自分を振り返る、ということに他ならないからです。
ニーチェは古典文献学者としての経験を踏まえて、異邦の、異文化のうちにある人々の、身体的な経験を「その身になって」、内側から想像的に追体験することのうちに「自己意識」獲得の可能性を求めました。遠い太古の、異郷の人の身体に入り込めるような、のびやかで限界を知らない身体的想像力に裏打ちされた知性だけが適切な「自己認識」を可能にするだろう、とニーチェは洞察したのです。
そうだとすると、ニーチェが同時代人に向けた「われわれはわれわれ自身を理解していない」という激しい批判のことばは、このようなのびやかな知性の働きが、いまや致命的な仕方で損なわれている、ということを意味していることになります。
同時代人(原理的には、私たちもそこに含まれます)は「臆断」の虜囚になっている、ニーチェはそう断定します。一九世紀のドイツのブルジョワで、キリスト教徒である、ニーチェの同時代人は、自分たちにとって「ナチュラル」と思われる価値判断や審美的判断を、歴史的に形成された偏見や予断であるとはみなさず、人類一般に普遍的に妥当するものだと信じ込んでいました。彼らはある特定の時代の、特定の地域に固有の、狭隘《きようあい》でいびつな世界観にしがみつき、それをこそ「世代や民族史がいくたびか移り変わっても永遠に不変であるもの」だと思い込んでいたのでした。
自己意識のこの致命的な欠如ゆえに、ニーチェの目には、彼の同時代人たちは、自分が「何ものである」かを知らず、自分がどんな仕方で「思考している」のかを知らない恐るべき愚物に映りました。
なぜこのような愚物たちが一九世紀末におびただしく簇生《そうせい》してきたのか。ニーチェの「系譜学的」な思考は、その歴史的淵源に向かいます。すごく平たく言えば、ニーチェのそれ以後の全著作は「いかにして現代人はこんなにバカになったのか?」という総題を持つことになるのです。
ここではニーチェの道徳論を取り上げて、ニーチェの系譜学的思考のあり方をたどってみることにしましょう。
道徳論において、ニーチェは、「善悪」という、人間にとって疑いの余地なく自明であると思われる概念を取り上げます。そして、「善悪」概念それ自体が一つの歴史を持つことを明らかにしようとするのです。
『道徳の系譜』は次のような挑発的な問いから始まります。
道徳論において、ニーチェは、「善悪」という、人間にとって疑いの余地なく自明であると思われる概念を取り上げます。そして、「善悪」概念それ自体が一つの歴史を持つことを明らかにしようとするのです。
『道徳の系譜』は次のような挑発的な問いから始まります。
[#1字下げ]「われわれの善悪は果たしていかなる起源を有するか。(略)人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を案出したか。そして、それらの価値判断そのものはいかなる価値を有するか。それらの価値判断はこれまで人間の進展を阻止してきたか、それとも促進してきたか。」
善悪の観念、それは私たちにとっては疑いようもなく自明のものに思えますが、ニーチェはそれを疑います。「善悪」という判定基準はいつできたのか、何のために、どんな利益を求めて、誰が発明したのか、そして、その発明は人類の役に立ったのか……。
「道徳は何の役に立つのか?」
これはずいぶん挑発的な問いかけです。しかし、こう問いかけたのは、ニーチェが最初ではありません。これはすでにイギリスの哲学者たち(トマス・ホッブス Thomas Hobbes 一五八八〜一六七九、ジョン・ロック John Locke 一六三二〜一七〇四、ジェレミー・ベンサム Jeremy Bentham 一七四八〜一八三二)によって久しく究明されてきた問いだからです。
善悪の観念はそれぞれの社会集団の歴史的条件に応じて変化する、ということについてはこの哲学者たちもニーチェと同意見でした。では、彼らとニーチェはどこが違うのでしょう。
野生の自然状態にある人間は、当然ながら、それぞれが自己保存という純粋に利己的な動機によって行動します。あらゆる手だてを尽くして利己的にふるまい自己保存に努めるのは人間の本来的な「権利」である、と功利主義者たちは考えました。(この権利は「自然権」natural right と呼ばれます。)
しかし、自然権を万人が行使すると、自分の欲しいものは他人から奪い取ってよいということですから、人間たちは絶えざる戦闘状態に置かれることになります。ホッブスはこの状況を「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes)ということばで言い表しました。
しかし、全員が全員の敵である「バトル・ロワイヤル」状態では、自分の生命財産を安定的に確保することはきわめて困難です。自然権の行使が許された社会では、一部の圧倒的強者を除いて、ほとんどの個人が所期の自己保存、自己実現の望みを絶たれて終わることになります。つまり、自然権行使の全面的承認は、自然権の行使を不可能にするという背理がここに生じることになります。
それゆえ、人々はとりあえず自然的欲求を断念して、社会契約に基づいて創設された国家に自然権の一部を委ねるほうが、結果的には私利私欲の達成が確実であると判断するに至ったのです。これが功利主義者によって想像された「道徳の系譜学」です。(ほんとうにそうだったのかどうかは知りようがありませんが。)
ジョン・ロックはこう書いています。
「道徳は何の役に立つのか?」
これはずいぶん挑発的な問いかけです。しかし、こう問いかけたのは、ニーチェが最初ではありません。これはすでにイギリスの哲学者たち(トマス・ホッブス Thomas Hobbes 一五八八〜一六七九、ジョン・ロック John Locke 一六三二〜一七〇四、ジェレミー・ベンサム Jeremy Bentham 一七四八〜一八三二)によって久しく究明されてきた問いだからです。
善悪の観念はそれぞれの社会集団の歴史的条件に応じて変化する、ということについてはこの哲学者たちもニーチェと同意見でした。では、彼らとニーチェはどこが違うのでしょう。
野生の自然状態にある人間は、当然ながら、それぞれが自己保存という純粋に利己的な動機によって行動します。あらゆる手だてを尽くして利己的にふるまい自己保存に努めるのは人間の本来的な「権利」である、と功利主義者たちは考えました。(この権利は「自然権」natural right と呼ばれます。)
しかし、自然権を万人が行使すると、自分の欲しいものは他人から奪い取ってよいということですから、人間たちは絶えざる戦闘状態に置かれることになります。ホッブスはこの状況を「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes)ということばで言い表しました。
しかし、全員が全員の敵である「バトル・ロワイヤル」状態では、自分の生命財産を安定的に確保することはきわめて困難です。自然権の行使が許された社会では、一部の圧倒的強者を除いて、ほとんどの個人が所期の自己保存、自己実現の望みを絶たれて終わることになります。つまり、自然権行使の全面的承認は、自然権の行使を不可能にするという背理がここに生じることになります。
それゆえ、人々はとりあえず自然的欲求を断念して、社会契約に基づいて創設された国家に自然権の一部を委ねるほうが、結果的には私利私欲の達成が確実であると判断するに至ったのです。これが功利主義者によって想像された「道徳の系譜学」です。(ほんとうにそうだったのかどうかは知りようがありませんが。)
ジョン・ロックはこう書いています。
[#1字下げ]「人間たちが共同体を構成し、一つの政府に服従するとき、彼らがたがいに認め合った最も重要で基幹的な目的とは、自分たちの私有財産を保全することであった。というのは、自然状態にあっては、私有財産の確保のためにはあまりに多くのものが欠落していたからである。」(『統治論』)
法律も道徳律も裁判も法的制裁もない状態では、私有財産を確保するのは容易なことではありません。しかたなく人々は私権を保全するために、私権の一部を制限されることを受け入れました。こうして、欲しいからといって、他人のものを腕ずくで奪い取ることは「してはいけない」ことになりました。「なすべきこと・してはいけないこと」という善悪の規範が成立するわけです。
しかし、その道徳律はあくまでも「私有財産の保全、個の自己保存、自己実現」、つまり「自然権の最大限行使」をめざして制定されたに過ぎません。善悪の規範そのものに何らかの普遍的な意味や人間的価値があったわけではありません。利己主義を徹底的に追求したら、いつしか「利他主義」(altruism)に至ってしまった、というのが功利主義の道徳観です。
ではニーチェの道徳論は、このいささかシニカルな功利主義的道徳論とどこがどう違うのでしょう。
功利主義者とニーチェの最大の違いは、「時代が違う」ということです。
生きていた時代が違うというのではありません(功利主義の哲学を集成したJ・S・ミル〈J.S.Mill 一八〇六〜七三〉とニーチェでは年齢はほとんど変わりません)。しかし、ミルは「近代市民社会」を考察し、ニーチェは「現代大衆社会」を考察しました。ミルは消えつつある社会を懐古的に解明し、ニーチェは出現しつつある二○世紀の大衆社会を予見的に批判しました。「時代が違う」というのは、そのことです。
ニーチェの道徳論は、「大衆社会の道徳論」という点において画期的なものでした。
「大衆社会」とは何かという定義をしておかないとニーチェの独創性は理解しにくいと思いますので、そこから始めましょう。
ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。群がある方向に向かうと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩《なだれ》打つように同じ方向に殺到するのが大衆社会の特徴です。(ニーチェの予見した「大衆社会」は、その三十年後にオルテガ〈Jose Ortega y Gasset 一八八三〜一九五五〉の『大衆の反逆』において活写されることになります。)
ニーチェはこのような非主体的な群衆を憎々しげに「畜群」(Herde ヘールデ)と名づけました。
畜群の行動準則はただ一つ、「他の人と同じようにふるまう」ことです。
誰かが特殊であること、卓越していることを畜群は嫌います。畜群の理想は「みんな同じ」です。それが「畜群道徳」となります。ニーチェが批判したのはこの畜群道徳なのです。
畜群道徳は何よりもまず社会の均質化を志向します。
「万人が平等であること」こそ畜群道徳の輝く理想です。だから人々は「心を一つにして、あらゆる特殊な要求、あらゆる特権や優先権に対して頑強に抵抗」し、「ひとしく同苦(同情)の宗教を信奉し、およそ感じ、生き、悩むかぎりのすべてのものに同情する」ことになります。(『道徳の系譜』)
こうして、みんな同じような顔付きをし、同じような考え方感じ方をする、個体差を識別しがたいどろどろした「塊」(マッス)が生成します。
「みんなと同じ」をめざす畜群道徳も、ある意味では功利的です。けれども、それはロックやホッブスの考えていた功利主義とはずいぶん違っています。というのは、市民社会における利己的市民たちが、自然権の一部を国家に委ねたのは、「どう行動すれば、自分がいちばん得するか?」ということについて最適な判断を下すだけの知性を備えていたからです。利己主義の制限は、利己的動機に基づいて、合理的な判断を下すことのできる市民たちによってはじめて主体的に引き受けられたのです。
ということは、もしも「私権の制限こそが、結果的には私利の確保につながる」ということに社会の成員たちが(合理的に推論する能力の欠如ゆえに)気づかなければ、功利主義的道徳はもう成り立たないということになります。
畜群にはもちろん条理を踏まえた推論なんかできるはずもありません。だって、畜群は(その定義からして)主体的判断ができないものだからです。
畜群の関心は、いかにして「均質的な群」を維持するか、ということにしかありません。そのためにはとにかく成員全員が隣人と同じ判断をし、同じ行動をすることが必要です。功利主義的市民社会では、市民たちの算盤《そろばん》ずくの計算の「結果」、全員の決断が一致するわけですが、これに対して畜群では、全員一致することそれ自体が「目的」となります。
ここに倒錯的な畜群道徳が誕生します。
なぜ「倒錯的」かと言いますと、畜群においては、ある行為が道徳的であるか否かについての判断は、その行為に内在する価値によってでも、その行為が当人にもたらす利益によってでもなく、単に「他の人と同じかどうか」を基準に決されるからです。
他人と同じことをすれば「善」、他人と違うことをしたら「悪」。それが畜群道徳のただ一つの基準です。
このような畜群のあり方は、私たちの時代の大衆の存在様態をみごとに言い当てています。
これまでも強権に屈して畜群化された社会集団は歴史上いくつも存在しました。しかし、近代の畜群はそれとは決定的に違っています。というのは、現代人は、「みんなと同じ」であることそれ自体のうちに「幸福」と「快楽」を見出すようになったからです。
相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを、ニーチェは「奴隷」(Sklave スクラーフェ)と名づけました。
ニーチェの後期の著作には、この「奴隷」的存在者に対する罵倒と嘲笑のことばが渦巻いています。
さて、ニーチェの道徳論のきわだった特徴は、このみすぼらしい大衆社会から抜け出す唯一の方策として、「奴隷」の対極に「貴族」を救世の英雄として描き出したことにあります。
「貴族」とは大衆社会のすべての欠陥からまったく自由な無垢《むく》で気高い存在です。人類の未来を託するに足る唯一の存在です。
「奴隷」が相互模倣の虜囚であるとすれば、「貴族」は、自分の外側にいかなる参照項も持たない自立者です。「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」、それがニーチェのいう「貴族」です。
「貴族」の行動は、(功利主義的市民のように)熟慮の上のものでもないし、(「奴隷」のように)外部への屈服でもありません。「貴族」とは何よりも無垢に、直接的に、自然発生的に、彼自身の「内部」からこみ上げてくる衝動に完全に身を任せるもののことなのです。
しかし、その道徳律はあくまでも「私有財産の保全、個の自己保存、自己実現」、つまり「自然権の最大限行使」をめざして制定されたに過ぎません。善悪の規範そのものに何らかの普遍的な意味や人間的価値があったわけではありません。利己主義を徹底的に追求したら、いつしか「利他主義」(altruism)に至ってしまった、というのが功利主義の道徳観です。
ではニーチェの道徳論は、このいささかシニカルな功利主義的道徳論とどこがどう違うのでしょう。
功利主義者とニーチェの最大の違いは、「時代が違う」ということです。
生きていた時代が違うというのではありません(功利主義の哲学を集成したJ・S・ミル〈J.S.Mill 一八〇六〜七三〉とニーチェでは年齢はほとんど変わりません)。しかし、ミルは「近代市民社会」を考察し、ニーチェは「現代大衆社会」を考察しました。ミルは消えつつある社会を懐古的に解明し、ニーチェは出現しつつある二○世紀の大衆社会を予見的に批判しました。「時代が違う」というのは、そのことです。
ニーチェの道徳論は、「大衆社会の道徳論」という点において画期的なものでした。
「大衆社会」とは何かという定義をしておかないとニーチェの独創性は理解しにくいと思いますので、そこから始めましょう。
ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。群がある方向に向かうと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩《なだれ》打つように同じ方向に殺到するのが大衆社会の特徴です。(ニーチェの予見した「大衆社会」は、その三十年後にオルテガ〈Jose Ortega y Gasset 一八八三〜一九五五〉の『大衆の反逆』において活写されることになります。)
ニーチェはこのような非主体的な群衆を憎々しげに「畜群」(Herde ヘールデ)と名づけました。
畜群の行動準則はただ一つ、「他の人と同じようにふるまう」ことです。
誰かが特殊であること、卓越していることを畜群は嫌います。畜群の理想は「みんな同じ」です。それが「畜群道徳」となります。ニーチェが批判したのはこの畜群道徳なのです。
畜群道徳は何よりもまず社会の均質化を志向します。
「万人が平等であること」こそ畜群道徳の輝く理想です。だから人々は「心を一つにして、あらゆる特殊な要求、あらゆる特権や優先権に対して頑強に抵抗」し、「ひとしく同苦(同情)の宗教を信奉し、およそ感じ、生き、悩むかぎりのすべてのものに同情する」ことになります。(『道徳の系譜』)
こうして、みんな同じような顔付きをし、同じような考え方感じ方をする、個体差を識別しがたいどろどろした「塊」(マッス)が生成します。
「みんなと同じ」をめざす畜群道徳も、ある意味では功利的です。けれども、それはロックやホッブスの考えていた功利主義とはずいぶん違っています。というのは、市民社会における利己的市民たちが、自然権の一部を国家に委ねたのは、「どう行動すれば、自分がいちばん得するか?」ということについて最適な判断を下すだけの知性を備えていたからです。利己主義の制限は、利己的動機に基づいて、合理的な判断を下すことのできる市民たちによってはじめて主体的に引き受けられたのです。
ということは、もしも「私権の制限こそが、結果的には私利の確保につながる」ということに社会の成員たちが(合理的に推論する能力の欠如ゆえに)気づかなければ、功利主義的道徳はもう成り立たないということになります。
畜群にはもちろん条理を踏まえた推論なんかできるはずもありません。だって、畜群は(その定義からして)主体的判断ができないものだからです。
畜群の関心は、いかにして「均質的な群」を維持するか、ということにしかありません。そのためにはとにかく成員全員が隣人と同じ判断をし、同じ行動をすることが必要です。功利主義的市民社会では、市民たちの算盤《そろばん》ずくの計算の「結果」、全員の決断が一致するわけですが、これに対して畜群では、全員一致することそれ自体が「目的」となります。
ここに倒錯的な畜群道徳が誕生します。
なぜ「倒錯的」かと言いますと、畜群においては、ある行為が道徳的であるか否かについての判断は、その行為に内在する価値によってでも、その行為が当人にもたらす利益によってでもなく、単に「他の人と同じかどうか」を基準に決されるからです。
他人と同じことをすれば「善」、他人と違うことをしたら「悪」。それが畜群道徳のただ一つの基準です。
このような畜群のあり方は、私たちの時代の大衆の存在様態をみごとに言い当てています。
これまでも強権に屈して畜群化された社会集団は歴史上いくつも存在しました。しかし、近代の畜群はそれとは決定的に違っています。というのは、現代人は、「みんなと同じ」であることそれ自体のうちに「幸福」と「快楽」を見出すようになったからです。
相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを、ニーチェは「奴隷」(Sklave スクラーフェ)と名づけました。
ニーチェの後期の著作には、この「奴隷」的存在者に対する罵倒と嘲笑のことばが渦巻いています。
さて、ニーチェの道徳論のきわだった特徴は、このみすぼらしい大衆社会から抜け出す唯一の方策として、「奴隷」の対極に「貴族」を救世の英雄として描き出したことにあります。
「貴族」とは大衆社会のすべての欠陥からまったく自由な無垢《むく》で気高い存在です。人類の未来を託するに足る唯一の存在です。
「奴隷」が相互模倣の虜囚であるとすれば、「貴族」は、自分の外側にいかなる参照項も持たない自立者です。「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」、それがニーチェのいう「貴族」です。
「貴族」の行動は、(功利主義的市民のように)熟慮の上のものでもないし、(「奴隷」のように)外部への屈服でもありません。「貴族」とは何よりも無垢に、直接的に、自然発生的に、彼自身の「内部」からこみ上げてくる衝動に完全に身を任せるもののことなのです。
[#1字下げ]「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生じる。」(『道徳の系譜』)
この「貴族」を極限までつきつめたものが「超人」です。
「超人」とは「人間を超えたポジション」のことです。そこから見おろすと人間がサルにしか見えないような高みのことです。
しかし、具体的に「超人」とはいったい誰のことを指し、また、どうすれば「超人」になれるのか、それについてニーチェはあまり具体的な指示はしてくれません。
「超人」とは「人間を超えたポジション」のことです。そこから見おろすと人間がサルにしか見えないような高みのことです。
しかし、具体的に「超人」とはいったい誰のことを指し、また、どうすれば「超人」になれるのか、それについてニーチェはあまり具体的な指示はしてくれません。
[#1字下げ]「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(略)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない。」(『ツァラトゥストラ』)
ご覧の通り、ニーチェは「超人」とは「何であるか」ではなく、「何でないか」しか書いていません。
どうやらそれは具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようです。「超人」とは「人間を超える何もの」かであるというよりは、畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出ようとする意志のことのように思われます。現にニーチェはこう続けています。
どうやらそれは具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようです。「超人」とは「人間を超える何もの」かであるというよりは、畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出ようとする意志のことのように思われます。現にニーチェはこう続けています。
[#1字下げ]「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である。深淵の上にかかる綱である。人間において偉大な点は、彼が一つの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、彼が過渡であり、没落である、ということである。」(『ツァラトゥストラ』)
ニーチェは「超人道徳」を説いたと言われていますが、実は「超人とは何か」という問いには答えていないのです。彼は「人間とは何か」についてしか語っていないのです。人間がいかに堕落しており、いかに愚鈍であるかについてだけ、火を吐くような雄弁をふるっているのです。
ニーチェにおいて、「超人とは何か」という問題はつねに「人間とは何か」という問題に、「貴族とは何か」という問題はつねに「奴隷とは何か」という問題に、「高貴さとは何か」という問題はつねに「卑賤さとは何か」という問題に、それぞれ言い換えられます。
この「すり替え」がニーチェの思考の「指紋」であり、その致命的な欠陥でもあるように思われます。というのは、こういうふうに「言い換える」と、結局のところ、人間を高貴な存在へと高めてゆく推力を確保するためには、人間に嫌悪を催させ、そこから離れることを熱望させるような「忌まわしい存在者」が不可欠だという倒錯した結論が導かれてしまうからです。
ニーチェは何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動を「距離のパトス」と呼びました。そして、その嫌悪感こそが「自己|超克《ちようこく》の熱情」を供与するというのです。ですから、「超人」へ向かう志向を賦活《ふかつ》するためには、醜悪な「畜群」がそこに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが欠かせません。おのれの「高さ」を自覚できるためには、つねに参照対象としての「低い」ものに側にいてもらうことが必要です。
結局、自己超克の向上心を持ち続けようとするものは、「そこから逃れるべき当の場所」である忌まわしい「永遠の畜群」をはっきりと有徴化し、固定化し、「いつでも呼び出し可能な状態」にしておくことを求めるようになります。超人たらんとするものは、おのれの「高さ」を観測する基準点として、「笑うべきサル」であるところの「永遠の賤民」を指名し、身動きならぬように鎖で縛り付けることに同意することになります。
ニーチェの超人思想がこうして最終的にたどりついたのは、意外なことに、みすぼらしく暴力的な反ユダヤ主義プロパガンダでした。それが彼の死後にどのような災厄をヨーロッパに及ぼすことになるか、ニーチェ自身は果たして想像していたのかどうか知る術《すべ》はありません。
ニーチェにおいて、「超人とは何か」という問題はつねに「人間とは何か」という問題に、「貴族とは何か」という問題はつねに「奴隷とは何か」という問題に、「高貴さとは何か」という問題はつねに「卑賤さとは何か」という問題に、それぞれ言い換えられます。
この「すり替え」がニーチェの思考の「指紋」であり、その致命的な欠陥でもあるように思われます。というのは、こういうふうに「言い換える」と、結局のところ、人間を高貴な存在へと高めてゆく推力を確保するためには、人間に嫌悪を催させ、そこから離れることを熱望させるような「忌まわしい存在者」が不可欠だという倒錯した結論が導かれてしまうからです。
ニーチェは何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動を「距離のパトス」と呼びました。そして、その嫌悪感こそが「自己|超克《ちようこく》の熱情」を供与するというのです。ですから、「超人」へ向かう志向を賦活《ふかつ》するためには、醜悪な「畜群」がそこに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが欠かせません。おのれの「高さ」を自覚できるためには、つねに参照対象としての「低い」ものに側にいてもらうことが必要です。
結局、自己超克の向上心を持ち続けようとするものは、「そこから逃れるべき当の場所」である忌まわしい「永遠の畜群」をはっきりと有徴化し、固定化し、「いつでも呼び出し可能な状態」にしておくことを求めるようになります。超人たらんとするものは、おのれの「高さ」を観測する基準点として、「笑うべきサル」であるところの「永遠の賤民」を指名し、身動きならぬように鎖で縛り付けることに同意することになります。
ニーチェの超人思想がこうして最終的にたどりついたのは、意外なことに、みすぼらしく暴力的な反ユダヤ主義プロパガンダでした。それが彼の死後にどのような災厄をヨーロッパに及ぼすことになるか、ニーチェ自身は果たして想像していたのかどうか知る術《すべ》はありません。
ニーチェの思想的事績をおおいそぎで要約してみましたが、「負の遺産」である「超人思想」を含めて、私たちの時代がニーチェから受け継いだものは少なくありません。
何よりもまず、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持できない、過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力とのびやかな知性が必要とされる、という考え方です。私はこの点については、ニーチェに全面的に賛成です。
この考え方はのちに「系譜学的」思考と名づけられることになり、ミシェル・フーコーによって受け継がれ、フーコーを経由して、学術的方法として定着することになりました。
フーコーは、ついでにニーチェからその「大衆嫌い」の傾向もちゃんと継承しました。そのおかげで、現代大衆社会では「大衆なんて大嫌いだ」と大衆たちが口を揃えて言い立てるという、「ポスト大衆社会」的な光景が展開することになりました。(これはちょっとうんざりですね。)
私たちの時代はニーチェからは困った遺産も受け継いだわけですが、それでも、人間知性の少なくとも一部分は、ある種の「嫌悪感」を推力として運動するものであることは間違いありませんし、そうである以上、このような「嫌悪する思想」から私たちが引き出しうる知的資産は決して少なくないと思います。
何よりもまず、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持できない、過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力とのびやかな知性が必要とされる、という考え方です。私はこの点については、ニーチェに全面的に賛成です。
この考え方はのちに「系譜学的」思考と名づけられることになり、ミシェル・フーコーによって受け継がれ、フーコーを経由して、学術的方法として定着することになりました。
フーコーは、ついでにニーチェからその「大衆嫌い」の傾向もちゃんと継承しました。そのおかげで、現代大衆社会では「大衆なんて大嫌いだ」と大衆たちが口を揃えて言い立てるという、「ポスト大衆社会」的な光景が展開することになりました。(これはちょっとうんざりですね。)
私たちの時代はニーチェからは困った遺産も受け継いだわけですが、それでも、人間知性の少なくとも一部分は、ある種の「嫌悪感」を推力として運動するものであることは間違いありませんし、そうである以上、このような「嫌悪する思想」から私たちが引き出しうる知的資産は決して少なくないと思います。