マルクス、フロイト、ニーチェ、この三人は構造主義の「地ならし」役として大きな貢献を果たしました。しかし、この三人は別に構造主義だけを準備したわけではありません。およそ二○世紀において提唱された学術的方法の中で、マルクス、フロイト、ニーチェの影響をまったく受けていないものはないからです。この三人は、二○世紀における知の枠組みそのものを準備したのですから、構造主義が生まれる風土の形成には当然深く与《あずか》っておりますが、だからといって、彼らを「構造主義の直接の淵源」と言うことはできません。狭義での構造主義の直接の起源とされているのは、彼らとは別の人物です。
フロイトがウィーンで精神分析の講義をしていたのとほとんど同じころ、一九○七年から一九一一年にかけて、スイスのジュネーヴ大学で、一人の言語学者が少数の言語学者と言語学専攻の学生たちを前にして、「一般言語学講義」という専門的な講義を行っていました。
この言語学者、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure 一八五七〜一九一三)が、思想史的には構造主義を始めた人とされています。
と書いておいて、次の行ですぐに訂正するのも気が引けますが、ソシュールが構造主義の「ほんとうの父」かどうかについては異論もあります。ソシュールは彼以前の言語学者や古典派経済学者たちがすでに気づいていたことを体系的に言い直しただけだ、という指摘もあります。しかし、この議論に深入りするとおおごとになるので、「定石」にならって、本書では、とりあえずソシュールを「構造主義の父(と言われている人)」ということでご納得いただいて、話を先へ進めたいと思います。
フロイトがウィーンで精神分析の講義をしていたのとほとんど同じころ、一九○七年から一九一一年にかけて、スイスのジュネーヴ大学で、一人の言語学者が少数の言語学者と言語学専攻の学生たちを前にして、「一般言語学講義」という専門的な講義を行っていました。
この言語学者、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure 一八五七〜一九一三)が、思想史的には構造主義を始めた人とされています。
と書いておいて、次の行ですぐに訂正するのも気が引けますが、ソシュールが構造主義の「ほんとうの父」かどうかについては異論もあります。ソシュールは彼以前の言語学者や古典派経済学者たちがすでに気づいていたことを体系的に言い直しただけだ、という指摘もあります。しかし、この議論に深入りするとおおごとになるので、「定石」にならって、本書では、とりあえずソシュールを「構造主義の父(と言われている人)」ということでご納得いただいて、話を先へ進めたいと思います。
ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではない」ということになるでしょう。(ほかにもソシュールはいろいろなことを指摘したのですが、いちばんだいじな一つだけにしておきます。)ギリシャ以来の伝統的な言語観によれば、ことばとは「ものの名前」です。その典型的な例は『聖書』に見ることができます。
[#1字下げ]「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥をかたちづくられたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それがその名となった。こうして、人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。」(『創世記』二:十九〜二十)
アダムの前に野の獣が連れて来られます。それを見て、アダムは「じゃ、これは牛、これは馬、これは犬」というふうに名前をつけてゆきます。
まず「もの」があり、ただ名前がついていないだけなので、人間がこちらのつごうで、あとからいろいろ名前をつけること、それがことばの働きである、というのが『創世記』に語られている言語観です。これをソシュールは「名称目録的言語観」と名づけました。
この「名称目録」つまり「カタログ」としての言語観は、私たちにものの名前は人間が勝手につけたものであって、ものとその名は別に必然性があって結びついているわけではないということを教えてくれます。
日本語では「犬」と呼ぶものを、英語では dog、フランス語では chien、ドイツ語では Hund と呼ぶというふうに、ものの呼び方は「言語共同体ごとにご自由に」ということになっていて、どの名がいちばん「正しい」のか、というようなことは問題にしても仕方がありません。「ものの名前は人間が勝手につけた」というのが「カタログ言語観」の基本にある考えです。これは誰にでも納得できるでしょう。
しかし、この言語観は、いささか問題のある前提に立っています。それは、「名づけられる前からすでにものはあった」という前提です。
たしかに私たちはふつうにはそう考えます。「丸くてもこもこした動物が来たので、アダムは勝手にそれを『羊』と名づけた」というふうに。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。「まだ名前を持たない」で、アダムに名前をつけられるのを待っている「もの」は、実在していると言えるのでしょうか。
名づけられることによって、はじめてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない、ソシュールはそう考えました。
ソシュールは「羊」の例を挙げています。その箇所を引用しておきましょう。
まず「もの」があり、ただ名前がついていないだけなので、人間がこちらのつごうで、あとからいろいろ名前をつけること、それがことばの働きである、というのが『創世記』に語られている言語観です。これをソシュールは「名称目録的言語観」と名づけました。
この「名称目録」つまり「カタログ」としての言語観は、私たちにものの名前は人間が勝手につけたものであって、ものとその名は別に必然性があって結びついているわけではないということを教えてくれます。
日本語では「犬」と呼ぶものを、英語では dog、フランス語では chien、ドイツ語では Hund と呼ぶというふうに、ものの呼び方は「言語共同体ごとにご自由に」ということになっていて、どの名がいちばん「正しい」のか、というようなことは問題にしても仕方がありません。「ものの名前は人間が勝手につけた」というのが「カタログ言語観」の基本にある考えです。これは誰にでも納得できるでしょう。
しかし、この言語観は、いささか問題のある前提に立っています。それは、「名づけられる前からすでにものはあった」という前提です。
たしかに私たちはふつうにはそう考えます。「丸くてもこもこした動物が来たので、アダムは勝手にそれを『羊』と名づけた」というふうに。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。「まだ名前を持たない」で、アダムに名前をつけられるのを待っている「もの」は、実在していると言えるのでしょうか。
名づけられることによって、はじめてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない、ソシュールはそう考えました。
ソシュールは「羊」の例を挙げています。その箇所を引用しておきましょう。
[#1字下げ]「フランス語の『羊』(mouton)は英語の『羊』(sheep)と語義はだいたい同じである。しかしこの語の持っている意味の幅は違う。理由の一つは、調理して食卓に供された羊肉のことを英語では『羊肉』(mutton)と言って sheep とは言わないからである。sheep と mouton は意味の幅が違う。それは sheep には mutton という第二の項が隣接しているが、mouton にはそれがない、ということに由来する。(略)もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。(略)あらゆる場合において、私たちが見出すのは、概念はあらかじめ与えられているのではなく、語のもつ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である。(略)概念は示差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。より厳密に言えば、ある概念の特性とは、『他の概念ではない』ということに他ならないのである。」(『一般言語学講義』。ちなみに本書ではフランス語と英語については、原著が手に入ったものは私が訳文を書いています。)
「羊」はフランス語では「ムートン」と言います。英語にはフランス語の「ムートン」に対応する名詞が二つあります。一つは「シープ」です。これは白くてもこもこした生き物で、もう一つの「マトン」は食卓に供される羊肉のことです。英語では生きた羊と食べる羊は別の「もの」ですが、フランス語では同一の語がこの二つの「もの」を含んでいます。ですから厳密に言えば、フランス語の「ムートン」に相当する包括的な名称は英語には存在せず、逆に、「動物としての羊」や「食肉としての羊」だけを意味する語はフランス語には存在しない、ということになります。
日本語と英語の場合でも同じことが起こります。
英語の devilfish「悪魔の魚」は「エイ」と「タコ」の両方を含む概念です。英語には「エイ」を指す manta という単語がありますし、「タコ」は octopus という名前があります。ですから英語話者はこの二つを形態的にはちゃんと区別しているのですが、同時にこの二種の動物を「忌まわしい生物」という意味で同一の概念のうちにまとめてもいるのです。このような包括的な名称は日本語にはありませんから、「悪魔の魚」なる生物は英語話者の意識の中にだけ存在していて、日本人が日本語で思考する限り、概念化することのできない奇怪な生物だということになります。
高島俊男は同じことが漢語と日本語のあいだでも起こっていると指摘しています。
日本語と英語の場合でも同じことが起こります。
英語の devilfish「悪魔の魚」は「エイ」と「タコ」の両方を含む概念です。英語には「エイ」を指す manta という単語がありますし、「タコ」は octopus という名前があります。ですから英語話者はこの二つを形態的にはちゃんと区別しているのですが、同時にこの二種の動物を「忌まわしい生物」という意味で同一の概念のうちにまとめてもいるのです。このような包括的な名称は日本語にはありませんから、「悪魔の魚」なる生物は英語話者の意識の中にだけ存在していて、日本人が日本語で思考する限り、概念化することのできない奇怪な生物だということになります。
高島俊男は同じことが漢語と日本語のあいだでも起こっていると指摘しています。
[#1字下げ]「われわれはいま『お天気』ということばをごく日常にもちいているが、この『天気』という語も本来の日本語ではない。これも、概括的、抽象的なことばなのである。同様に『春』『夏』『秋』『冬』はある。しかしそれらを抽象した『季節』はない。
[#1字下げ] あるいは目に見える『そら』はある。しかし万物を主宰し、運行せしめ、個人と集団の命運をさだめる抽象的な『天』はない。いやこの『天』ともなると、単に抽象的というにとどまらず、この観念を生んだ種族の思想──すなわちものの考えかた、世界と人間のとらえかた──を濃厚にふくんでいる。
[#1字下げ] 概念があるからことばがある。逆に言えば、ことばがないということは概念がないということである。」(『漢字と日本人』)
[#1字下げ] あるいは目に見える『そら』はある。しかし万物を主宰し、運行せしめ、個人と集団の命運をさだめる抽象的な『天』はない。いやこの『天』ともなると、単に抽象的というにとどまらず、この観念を生んだ種族の思想──すなわちものの考えかた、世界と人間のとらえかた──を濃厚にふくんでいる。
[#1字下げ] 概念があるからことばがある。逆に言えば、ことばがないということは概念がないということである。」(『漢字と日本人』)
語義の一部が重複しているので、「同義語」と言えば「同義語」と言えなくもないのですが、含まれている意味の厚みや奥行きが違うせいで誤解を産むということが、外国語を訳すときにはよく起こります。
例えば英語の several というのは何となく「五、六」くらいと思われていますので、several years はよく「数年」と訳されますが、実際には、several は「二つ」のときもあれば「十以上」のときもあります。
このような「語に含まれている意味の厚みや奥行き」のことをソシュールは「価値」valeur と呼びました。(valeur はふつう「価値」と訳されて、signification「語義」と区別されています。)
several と「五、六」は「語義」としてはだいたい重なっていますが、「価値」を微妙に異にしています。「そら」と「天」や、「ムートン」と「シープ」も同じです。ある語が持つ「価値」、つまり「意味の幅」は、その言語システムの中で、あることばと隣接する他のことばとの「差異」によって規定されます。もし、あることばが含む意味の幅の中にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶとするならば、「ことば」と「もの」は同時に誕生するということができます。
「デヴィルフィッシュ」という「もの」は、そのようなことばを持つ言語システムで世界を眺めている人々の意識の中にのみ存在しており、その語を持たない言語共同体には存在しません。
それは星座の見方を知らない人間には満天の星が「星」にしか見えず、天文に詳しい人には、空いっぱいに「熊」や「獅子」や「白鳥」や「さそり」が見えるという事態と似ています。黒い空を背景にして散乱する無数の星のあいだのどこに切れ目を入れて、どの星とどの星を結ぶか、それは見る人の自由です。そして、ある切れ目を入れて星を繋いだ人は、そこにはっきり「もののかたち」を見出すことができます。でも、二人並んで星座を見ているときに、よく経験するように、見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人にはまったく見えないのです。
ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。
例えば英語の several というのは何となく「五、六」くらいと思われていますので、several years はよく「数年」と訳されますが、実際には、several は「二つ」のときもあれば「十以上」のときもあります。
このような「語に含まれている意味の厚みや奥行き」のことをソシュールは「価値」valeur と呼びました。(valeur はふつう「価値」と訳されて、signification「語義」と区別されています。)
several と「五、六」は「語義」としてはだいたい重なっていますが、「価値」を微妙に異にしています。「そら」と「天」や、「ムートン」と「シープ」も同じです。ある語が持つ「価値」、つまり「意味の幅」は、その言語システムの中で、あることばと隣接する他のことばとの「差異」によって規定されます。もし、あることばが含む意味の幅の中にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶとするならば、「ことば」と「もの」は同時に誕生するということができます。
「デヴィルフィッシュ」という「もの」は、そのようなことばを持つ言語システムで世界を眺めている人々の意識の中にのみ存在しており、その語を持たない言語共同体には存在しません。
それは星座の見方を知らない人間には満天の星が「星」にしか見えず、天文に詳しい人には、空いっぱいに「熊」や「獅子」や「白鳥」や「さそり」が見えるという事態と似ています。黒い空を背景にして散乱する無数の星のあいだのどこに切れ目を入れて、どの星とどの星を結ぶか、それは見る人の自由です。そして、ある切れ目を入れて星を繋いだ人は、そこにはっきり「もののかたち」を見出すことができます。でも、二人並んで星座を見ているときに、よく経験するように、見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人にはまったく見えないのです。
ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。
[#1字下げ]「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭のたしかなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」(『一般言語学講義』)
言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。