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寝ながら学べる構造主義08

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:2「肩が凝る」のは日本人だけ!?[#「2「肩が凝る」のは日本人だけ!?」はゴシック体] 高島が言うように、ことばはつねに「こ
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2「肩が凝る」のは日本人だけ!?[#「2「肩が凝る」のは日本人だけ!?」はゴシック体]
 高島が言うように、ことばはつねに「この観念を生んだ種族の思想──すなわちものの考えかた、世界と人間のとらえかた──を濃厚にふくんで」います。外来語を用いるのは、ふつうは、その観念を言い表す同義語が母国語にない場合です。
例えば、「アントレプレナー」entrepreneur というのは最近よく目にするビジネス用語です。(ふつう「起業家」という訳語を当てます。)この語は、興味深いことに、アメリカから来た用語なのに、実は英語ではありません。entrepreneur はフランス語なのです。つまり、アメリカのビジネスシーンが「起業家」という新しいビジネス概念を持ったときに、それを言い表すのに旧来の enterpriser ではどうもしっくりこないというので、「企業家」と「創業者」を同時に意味するフランス語を借用してきたのをさらに日本に来て「アントレプレナー」と表記されて、「自立心旺盛なヴェンチャー・ビジネスの創業者」という特異な含意とともに流通することになったわけです。つまり、この単語は、新しいビジネス・スタイルと、それに対する価値評価を「込み」で輸入されたのです。
外国語を母国語の語彙に取り込むということは、「その観念を生んだ種族の思想」を(部分的にではあれ)採り入れることです。そのことばを使うことで、それ以前には知られていなかった、「新しい意味」が私たちの中に新たに登録されることになります。私の語彙はそれによって少しだけ豊かになり、私たちの世界は少しだけ立体感を増すことになります。
ですから、母国語にある単語が存在するかしないか、ということは、その国語を語る人たちの世界のとらえ方、経験や思考に深く関与してきます。
身近な例を一つ挙げましょう。
私たち日本人はすぐに肩が凝ります。
「ああ、肩が凝った」という愁訴はふつうは根を詰めて仕事をしたあとや、気詰まりな人間関係をがまんした後に口にされます。
ところが、「肩が凝る」という身体的生理的現象は、日本語を使う人の身体にしか生じないという医療人類学上の興味深い研究があります。(小林昌廣「肩凝り考」)
たしかに同じ姿勢で長いあいだ作業をしたりすれば、世界中の人は誰だって背中から首筋にかけての筋肉が硬直して痛みを発します。しかし、それを他の国語の人々は必ずしも「肩が凝った」という言い方では表現しないのです。
英語がそうです。
英語にはもちろん「肩」ということばがあり、「凝る」ということばもあります。しかし英語話者は「私はこわばった肩を持つ」という言い方をしません。日本人が「肩が凝る」のとだいたい同じ身体的な痛みを彼らは「背中が痛む」I have a pain on the back.と言うのです。
日本人もアメリカ人も痛むのはそれほど違う箇所ではありません。しかしその痛みの場所を別の単語で表現するのは、痛みの場所が「どこ」かということが、それぞれの国語の中で、重要な意味を持っているからです。
英語では、根を詰めて仕事をすることを、「重荷を背中に背負う」carry a burden on one's back と言い、熱心に働くことを「背骨を折る」break one's back と言います。ですから、英語話者は仕事のストレスを「肩」ではなく、back に感じ取っている、ということが分かります。
日本では、誰かが「背中が痛い」と言ったら、「病院に行ったら?」と応じますが、「肩が凝った」と言う人に対してはほとんど反射的に、「ご苦労さまでした」と返します。それは「肩が凝った」というのは単なる身体的な痛みの表現ではない、ということを私たちが了解し合っているからです。「肩が凝った」という訴えが「自分は本来の責任範囲を超える仕事をして、疲れたのだから、ねぎらって欲しい」という社会的なメッセージを含んでいることをみんな知っているからです。
ですから、それと同じ状況で、英語話者は自分の労苦へのねぎらいのことばを求めるときには「背中が痛い」と訴えることになります。そして、現にそのときその人の身体ではまちがいなく「背中」が激しく痛んでいるのです。
一九六○年代のはじめころ、アメリカ大統領だったJ・F・ケネディは背中に戦傷があって、よく杖をついて歩いていました。キューバ危機のころ、ハイアニス・ポートでヨットから杖にすがるように下りてくるケネディ大統領の姿をニュース映画で見た記憶があります。日本の小学生だった私にはただ「痛そうだな」としか思えないその映像を、当時のアメリカ国民は、「背骨をへし折るような重責に耐えている大統領」という強烈なメッセージを「込み」で受容していたはずです。
このように、私たちの経験は、私たちが使用する言語によって非常に深く規定されています。身体経験のような、世界中誰の身にでも同じように起こるはずの物理的・生理的現象でさえ、言語のフレームワークを通過すると、様相を一変させてしまうのです。
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