フランス近代における兵士の造型についてフーコーはこう書いています。
[#1字下げ]「一八世紀後半になると、兵士は造型されるものとなった。まるでパスタを練り上げるように、兵役不適格な身体を材料に、必要な機械が造り出されたのである。姿勢が少しずつ矯正《きようせい》された。計算ずくの束縛がゆっくりと全身にゆきわたり、身体の支配者となり、全身をたわめて、いつでも使用可能なものに変えた。それはさらに日常的な動作の中にそっと入り込み、自然な反応として根づいたのである。こうして、身体から『農民臭さ』が追い払われ、『兵士の風格』が与えられたのである。」(『監獄の誕生』)
同じことは日本でも行われています。
明治維新後、山県有朋《やまがたありとも》の主唱によって明治六年に国民皆兵を標榜する徴兵制が導入されました。この制度のねらいは、天皇の直接指揮下に国軍の兵士を組織化することであり、短期的には、各地で不穏な動きを示す(佐賀の乱、神風連《しんぷうれん》の乱、萩の乱)不平士族を牽制《けんせい》する意味もありました。
このとき山県の念頭にあった近代兵制のキーワードは「統制」でした。
それは二つのことを意味しています。一つには明治政府の指揮に従おうとしない各藩の士族兵を「統御する」こと、第二には、これまで武装したことのない農民商人ら平民の身体を軍事的に「標準化する」ことです。つまり農民兵の身体を「標準化する」ことをもって、中央権力に服さない士族兵の身体を「統御する」という二つの水準での「身体の統制」を山県有朋は企てていたのです。
明治十年の西南戦争は、その農兵がはじめて薩摩の士族兵と死闘を演じて勝利を収めた戦闘でした。このとき大久保利通らは緒戦の不利を重く見て、緊急避難的措置として、各藩から士族兵を募ることを主張しました。しかし、山県はあくまで平民からの徴兵にこだわり、とにかく農兵を訓練して戦地に派遣する、という基本方針を譲らず、「軍事に臨んで生兵を徴集し、之を練習して戦に臨ましむるは、少々|迂闊《うかつ》なるに似たれども、練習数月、もって出兵せしむるに足る」と主張したのです。(北澤一利『「健康」の日本史』)
奇兵隊以来の歴戦の戦闘指揮官である山県有朋は、ある意味で、近代日本でもっともフーコー的な「身体の政治技術」に通暁していた人物かも知れません。人間の身体は政治的な技術によって「加工」することが可能であり、それは「練習数月」をもって足りるという山県のリアリズムは、人間の身体というのはどうすれば動き、どうすれば縮み上がり、どうすれば死をも恐れぬ強兵となるかの「操作」技術を、剣戟と砲声の中で身を以て習得した者に固有のものでしょう。
この軍事的身体加工の「成功」(西南戦争の勝利)をふまえて近代日本は、「体操」の導入に進みます。明治十九年、文部大臣森|有礼《ありのり》は軍隊で行われていた「兵式体操」を学校教育の現場に導入します。生徒たちの身体の統制が「道徳の向上」と「近代的な国家体制の完成」に不可欠のものであることを森はただしく看取していたのです。国家主導による体操の普及のねらいはもちろん単なる国民の健康の増進や体力の向上ではありません。そうではなくて、それはなによりも「操作可能な身体」、「従順な身体」を造型することでした。
明治維新後、山県有朋《やまがたありとも》の主唱によって明治六年に国民皆兵を標榜する徴兵制が導入されました。この制度のねらいは、天皇の直接指揮下に国軍の兵士を組織化することであり、短期的には、各地で不穏な動きを示す(佐賀の乱、神風連《しんぷうれん》の乱、萩の乱)不平士族を牽制《けんせい》する意味もありました。
このとき山県の念頭にあった近代兵制のキーワードは「統制」でした。
それは二つのことを意味しています。一つには明治政府の指揮に従おうとしない各藩の士族兵を「統御する」こと、第二には、これまで武装したことのない農民商人ら平民の身体を軍事的に「標準化する」ことです。つまり農民兵の身体を「標準化する」ことをもって、中央権力に服さない士族兵の身体を「統御する」という二つの水準での「身体の統制」を山県有朋は企てていたのです。
明治十年の西南戦争は、その農兵がはじめて薩摩の士族兵と死闘を演じて勝利を収めた戦闘でした。このとき大久保利通らは緒戦の不利を重く見て、緊急避難的措置として、各藩から士族兵を募ることを主張しました。しかし、山県はあくまで平民からの徴兵にこだわり、とにかく農兵を訓練して戦地に派遣する、という基本方針を譲らず、「軍事に臨んで生兵を徴集し、之を練習して戦に臨ましむるは、少々|迂闊《うかつ》なるに似たれども、練習数月、もって出兵せしむるに足る」と主張したのです。(北澤一利『「健康」の日本史』)
奇兵隊以来の歴戦の戦闘指揮官である山県有朋は、ある意味で、近代日本でもっともフーコー的な「身体の政治技術」に通暁していた人物かも知れません。人間の身体は政治的な技術によって「加工」することが可能であり、それは「練習数月」をもって足りるという山県のリアリズムは、人間の身体というのはどうすれば動き、どうすれば縮み上がり、どうすれば死をも恐れぬ強兵となるかの「操作」技術を、剣戟と砲声の中で身を以て習得した者に固有のものでしょう。
この軍事的身体加工の「成功」(西南戦争の勝利)をふまえて近代日本は、「体操」の導入に進みます。明治十九年、文部大臣森|有礼《ありのり》は軍隊で行われていた「兵式体操」を学校教育の現場に導入します。生徒たちの身体の統制が「道徳の向上」と「近代的な国家体制の完成」に不可欠のものであることを森はただしく看取していたのです。国家主導による体操の普及のねらいはもちろん単なる国民の健康の増進や体力の向上ではありません。そうではなくて、それはなによりも「操作可能な身体」、「従順な身体」を造型することでした。
[#1字下げ]「軍隊では体操は、素人兵に集団戦法を訓練するときに使われました。体操は、一人一人ではたいした力を期待できない戦いの素人たちを、号令とともに一斉に秩序正しく行動できるように訓練します。近代的軍隊においては、兵士たちは個人的な判断で臨機応変に戦うというよりも、集団の中においてあらかじめ決められたわずかな役割を任命され、合図に応じてこれを繰り返し反復するだけです。(略)体操が集団秩序を高めることを目的とするのは、この戦術上の必要を満たすためであり、いいかえれば、それは平凡な能力しか持たない個人を有効に活用するための方法であったのです。」(『「健康」の日本史』)
近代国家は、例外なしに、国民の身体を統御し、標準化し、操作可能な「管理しやすい様態」におくこと──「従順な身体」を造型することを最優先の政治的課題に掲げます。「身体に対する権力の技術論」こそは近代国家を基礎づける政治技術なのです。
その技術は、当然、最初は、国家の武装装置である兵士の身体の標準化と統制に向かいます。しかし、そこにとどまるわけではありません。森有礼の兵式体操と同じく、その次には必ず「監視され、訓練され、矯正される人々、狂人、子ども、生徒、植民地先住民、生産装置に縛りつけられる人々、生きているあいだずっと監視される人々」(『監獄の誕生』)に向けて、同じ政治技術が適用されることになります。
身体を標的とする政治技術がめざしているのは、単に身体だけを支配下に置くことではありません。身体の支配を通じて、精神を支配することこそこの政治技術の最終目的です。この技術の要諦《ようてい》は、強制による支配ではありません。そうではなくて、統御されているものが、「統御されている」ということを感知しないで、みずから進んで、みずからの意志に基づいて、みずからの内発的な欲望に駆り立てられて、従順なる「臣民」として権力の網目の中に自己登録するように仕向けることにあります。
政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、権力は必ず「身体」を標的にします。いかなる政治権力も人間の「精神」にいきなり触れて、意識過程をいじくりまわすことはできません。「将を射んとすればまず馬を射よ」。「精神を統御しようとすれば、まず身体を統御せよ」です。
その技術は、当然、最初は、国家の武装装置である兵士の身体の標準化と統制に向かいます。しかし、そこにとどまるわけではありません。森有礼の兵式体操と同じく、その次には必ず「監視され、訓練され、矯正される人々、狂人、子ども、生徒、植民地先住民、生産装置に縛りつけられる人々、生きているあいだずっと監視される人々」(『監獄の誕生』)に向けて、同じ政治技術が適用されることになります。
身体を標的とする政治技術がめざしているのは、単に身体だけを支配下に置くことではありません。身体の支配を通じて、精神を支配することこそこの政治技術の最終目的です。この技術の要諦《ようてい》は、強制による支配ではありません。そうではなくて、統御されているものが、「統御されている」ということを感知しないで、みずから進んで、みずからの意志に基づいて、みずからの内発的な欲望に駆り立てられて、従順なる「臣民」として権力の網目の中に自己登録するように仕向けることにあります。
政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、権力は必ず「身体」を標的にします。いかなる政治権力も人間の「精神」にいきなり触れて、意識過程をいじくりまわすことはできません。「将を射んとすればまず馬を射よ」。「精神を統御しようとすれば、まず身体を統御せよ」です。
[#1字下げ]「身体は政治的領域に投じられる。権力の網目が身体の上でじかに作用する。権力の網目が身体にかたちを与え、刻印を押し、訓育し、責めさいなみ、労働を強い、儀式への参加を義務づけ、そして、記号を持つことを要請するのである。」(『監獄の誕生』)
権力が身体に「刻印を押し、訓育し、責めさいなんだ」実例を一つ挙げておきましょう。一九六○年代から全国の小中学校に普及した「体育坐り」あるいは「三角坐り」と呼ばれるものです。
ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。両手を組ませるのは「手遊び」をさせないためです。首も左右にうまく動きませんので、注意散漫になることを防止できます。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出せません。竹内はこう書いています。
ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。両手を組ませるのは「手遊び」をさせないためです。首も左右にうまく動きませんので、注意散漫になることを防止できます。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出せません。竹内はこう書いています。
[#1字下げ]「古くからの日本語の用法で言えば、これは子どもを『手も足も出せない』有様に縛りつけている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐに気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは『息を殺している』姿勢である。手も足も出せず息を殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。」(竹内敏晴『思想する「からだ」』)
生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に、教師たちはこの坐り方にたどりついたのです。しかし、もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。浅い呼吸、こわばった背中、痺《しび》れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。
竹内によれば、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で、一九五八年のことだそうです。これは日本の戦後教育が行ったもっとも陰湿で残酷な「身体の政治技術」の行使の実例だと思います。
竹内によれば、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で、一九五八年のことだそうです。これは日本の戦後教育が行ったもっとも陰湿で残酷な「身体の政治技術」の行使の実例だと思います。